十一脚目の椅子
喫茶「鉛筆」は、十脚の椅子しか置けない細長い店だった。
店主の笹森円佳は、閉店後に床を掃くたび、声に出して数える。窓際に二脚、壁際に四脚、カウンターに四脚。十。
けれど最後の照明を落とすと、奥の丸テーブルに十一脚目がある。
古い木の椅子で、背もたれには小さな焦げ跡があった。夫の烈が、開店初日に煙草を落としてつけた跡によく似ていた。
円佳は驚かなくなった。
十一脚目に向かって、売れ残ったシフォンケーキの端を置く。
「今日は大学生がね、財布を忘れて走って戻ってきたよ」
返事はない。
「新しい豆は酸味が強すぎた。あなたなら、顔をしかめたでしょうね」
返事はない。それでも、言葉は店内の暗がりにゆっくり溶けた。
烈が亡くなって三年、円佳は閉店後だけ夫婦だった。昼は店主で、仕入れをし、客の愚痴を聞き、釣り銭を間違えないようにする。夜になると十一脚目があり、円佳は一日の小さな出来事を半分に分けられた。
ある冬の夜、円佳は封筒を丸テーブルに置いた。店を買いたいという若い夫婦からの申し出だった。
「もう、立ちっぱなしがきついの」
声にすると、胸の奥で何かがほどけた。
「でも売ったら、あなたが帰る場所までなくなる気がして」
十一脚目は黙っていた。
円佳は少し腹を立てた。烈は生きていた頃から、肝心なときほど考え込んで黙る男だった。
「ずるいわね。いつも私に決めさせる」
翌朝、円佳は契約書に判を押した。
最後の営業日、常連たちが花を持って押しかけ、泣いたり笑ったりした。若い夫婦は、十脚では足りないですね、と新しい椅子を一脚運び込んだ。焦げ跡のない、明るい樫の椅子だった。
閉店後、円佳はいつものように照明を落とした。
丸テーブルには、新しい椅子を含めて十一脚あった。数はもう増えなかった。
円佳は焦げ跡を探し、どこにもないことを確かめた。
それから空の丸テーブルに二人分のコーヒーを置き、一方を自分で飲んだ。
「じゃあね、烈。今度は私が、あなたのいない場所へ帰る番」
十脚の店に、椅子は十一脚。
けれどその夜、円佳は初めて、一人で店を出た。