十三分早い発明

蓄電池メーカーの量産承認会議で、仁科汐里は壁際の補助椅子に座っていた。彼女は正社員ですらない。試験装置を保守する協力会社の技術員で、今日の役目は測定値について質問されたときだけ答えることだった。

机上の特許譲渡契約書には、新型セパレーターの発明者として開発本部長・大鹿の名だけが印刷されていた。取得予定額は十二億円。社長印が押されれば、海外企業への一括譲渡が決まる。

大鹿は説明した。

「十月十七日午前十時四十二分、私が膜厚の変化から着想した」

汐里は顔を上げた。十時四十二分という時刻は、大鹿の発明届にも、弁理士の面談記録にも繰り返されている。だが発明届には「充放電四百三十八回目で抵抗値が反転した」と書かれていた。

汐里は装置ログを投影した。四百三十八回目の測定が終わったのは午前十時五十五分。結果がサーバーへ保存されたのは五十六分で、閲覧した最初の利用者は汐里だった。

「十時四十二分には、四百三十八回目はまだ始まってもいません」

大鹿は、回数は後から補っただけだと笑った。

「着想そのものは先にあった」

汐里は保守報告書の原本を出した。十時五十八分、異常値を見つけた彼女が「膜厚を段階的に変えれば反転点を制御できる」と記し、大鹿へ送ったものだ。受信確認の電子署名も残っている。大鹿の発明届が作成されたのは、その十三分後だった。ただし文書上の時刻だけが十時四十二分へ書き換えられていた。

人事部長が低く言った。

「協力会社員に職務発明の権利はない」

「だからこそ、私の会社との共同発明契約が必要です。名前を消して売る契約ではありません」

汐里は譲渡契約書の押印欄へ、装置ログを重ねた。社長が持ち上げていた印鑑をケースへ戻す。

汐里の派遣元社長からは、会議中にも「保守契約が切られる。発言を撤回しろ」と短いメッセージが届いた。彼女は返信せず、四百三十八回目の波形に自分の電子署名を付けた。保守員の署名は普段、装置が正常だったことを保証するためのものだ。今日は、会社の説明が正常でないことを保証していた。

十二億円の決裁は、四百三十八という数字の前で止まった。