十三段目の苔

真壁朔也が村の禁足地・御返し谷へ入った理由は、卒論のためだった。麓の資料館に残る植物採集帳には、昭和三十六年を最後に谷の記録がない。最後の頁だけ、赤鉛筆で一行が囲まれていた。

〈石祠へ上がる石段では、十三段目を踏んではいけない〉

迷信を笑うつもりはなかった。民俗学の副専攻で、禁忌が土地の危険を言い換えたものだとは知っている。崩落しやすい段なのだろう。資料館の学芸員は採集帳を渡すとき、歴代の記録者十三人のうち十二人が山で消息を絶ったと小声で付け加えた。残る一人は、まだ生まれていない日付で署名しているという。朔也はフィールドノートに時刻と天候を書き、録音を始めた。

【10:41 石段確認。全二十七段。十三段目のみ苔がない】

【10:43 十二段目まで上がる。十三段目を飛び越す】

谷は昼なのに薄暗く、蝉の声は石段の手前で途切れていた。段の両脇には古い名札が埋まり、どれも十三文字目だけ削られている。録音画面の経過時間も、十二分五十九秒から先へ進まなかった。

十四段目へ着地した瞬間、ザックの胸紐が背後へ引かれた。枝に絡んだと思い、振りほどこうとして足を滑らせた。右足の踵が十三段目に触れたのは一度だけだった。

石の下で、何かが息を吸った。苔のない面に、朔也の靴底と同じ溝が湿って浮かび、その横に小さな裸足の跡が一つ増えた。

「いち」

幼い声だった。朔也は祠を見ずに駆け下りた。十二段目を踏むたび、石の下の声が「に」「さん」と増えた。麓へ着いたときは「じゅうに」だった。

録音には風と靴音しか残っていなかった。ただ、採集帳を撮った写真だけが変わっていた。赤鉛筆の文の下に、朔也の筆跡で追記がある。

〈十三段目は、踏んだ者を一段として数える〉

その夜、研究室の共有カレンダーから招待が届いた。予定名は「現地調査・十三段目より上」。主催者は真壁朔也。参加者欄には、資料館で採集帳に名を残した十二人と、彼の名前が並んでいた。

削除を押しても予定は消えず、開始時刻だけが近づいた。

スマートフォンが震えた。

――集合場所に到着しました。

地図の青い点は、朔也のワンルームではなく、苔のない石段の上にあった。画面下には「参加者十三名。全員出席」と表示されていた。