十二階を押したのは
【波戸場玖実さん死亡事件・参考人聴取記録】
蓼丸征路は、玖実と同じマンションの十一階に住んでいた。
「昨夜十一時四十分ごろ、郵便受けを見ていると、波戸場さんが帰ってきました。少し話して、彼女がエレベーターへ乗るのを見送りました」
「あなたは乗らなかった?」
「ええ。忘れ物を思い出したので」
「彼女は一人でしたか」
「もちろんです。買い物袋を両手に持っていました。十二階のボタンを肘で押して、閉ボタンを二度押しました」
玖実の遺体は、午前零時すぎ、十二階の非常階段で発見された。首には細いコードの跡があり、買い物袋はエレベーター内に残されていた。
内部カメラは一週間前から故障している。
ロビーの映像には、玖実が乗り込む姿しか写っていなかった。
「エレベーターは七階で一度止まりました」
蓼丸は自分から付け加えた。
「でも、誰も乗ってきませんでした。波戸場さんは怖がって、開ボタンを長く押していました。それから十二階をもう一度押したんです」
「あなたはロビーにいたのですね」
「階数表示を見ていました。七階で止まったのは分かります」
「誰も乗らなかったことも?」
蓼丸は少し黙った。
「あとで考えれば、そうだったんだろうと」
捜査員は現場写真を机へ置いた。
エレベーターの操作盤には、玖実の指紋しか残っていない。ただし七階の開ボタンだけは、布で拭ったように曇っていた。
「このマンションへ越して何年ですか」
「五年です」
「内部の鏡が先月撤去されたことは?」
「知っています」
「では、彼女が怖がっていたのを、どこで見たのですか」
蓼丸は答えなかった。
捜査員たちは彼を連れ、ロビーへ戻った。
「昨夜と同じ場所に立ってください」
蓼丸は郵便受けの前へ立った。
エレベーターの扉が開く。正面には何もない灰色の壁。操作盤は、乗り込んで右へ振り返らなければ見えない位置にある。
「彼女は十二階を肘で押した、と言いましたね」
捜査員が尋ねた。
「閉ボタンは二度。七階では開ボタンを長押しし、十二階を押し直した」
蓼丸は開いた箱を見つめたまま動かなかった。
扉が閉まり始める。
その細い隙間からでも、操作盤は最後まで一度も見えなかった。