十五文字ぶんの成分表
限定リップの発売前日、越智叶芽は最終校正の画面で指を止めた。
商品ページの見出しには〈香料を使わない、素のままの色〉。けれど品質部から届いた最新版の成分表には、旧版になかった香料名が十五文字増えている。予約者コメントには〈香りで頭痛が出るため、無香料だけを選んでいます〉とある。撮影台には艶のある試作品が二十本並び、見た目だけなら昨日と何も変わらなかった。変わったのは、買う人が知るべき中身だけだった。
「香りはほんの少しです。パッケージは三万本、もう刷り終わっています」
企画責任者は、ウェブだけ直せばいいと言った。明後日で退職する叶芽に、今さら発売を止める理由などない、という声にも聞こえた。会議室の隅には、完成したパッケージ見本が光っている。ここで戻せば、発売日はずれ、撮影も店頭展開も組み直しになる。
隣の後輩は青ざめていた。彼女が照合したのは、共有フォルダの先頭にあった〈最終〉という名のファイルだ。叶芽は責める代わりに、二つのファイルの管理番号を並べた。旧版はB12、製造に使われた処方はB12R。更新日の新しい方が、一覧では下に埋もれていた。
「見落としたんじゃない。正しい版を選べない置き方だった」
叶芽は販売予約を外し、倉庫へ出荷保留を連絡した。見出しを香りのある表現へ変え、成分欄を差し替える。さらに校正表へ処方番号と製造番号を記入する欄を足し、企画と品質が同じ番号へ印を付けなければ公開できない手順にした。
責任者はため息をついた。発売日を動かせば、叶芽の評価にも遅延として残る。退職後に訂正されれば、彼女自身は責任を問われないかもしれない。それでも画面を閉じる理由にはならなかった。
「ここまでできるなら、残ってリーダーになればいいのに」
叶芽の受信箱には、転職先からの雇用契約書が届いていた。小さな化粧品会社で、給与は少し下がる。ただし、宣伝文句を決める会議に品質担当も同席することが条件に入っている。
これまで叶芽は、きれいな言葉を作ってから、最後に事実へ合わせて削ってきた。次は順番を変えたかった。
修正版の商品ページを提出し、出荷停止の理由を記録する。後輩へB12Rの表を渡したあと、叶芽は契約書の〈承諾〉を押した。
十五文字を消さずに働ける場所を、自分で選んだ。