十六秒だけ、恋人
大庭珠季が視線入力で一文字を選ぶには、平均二秒かかった。
治療法のない進行性の病は、最初に足を、次に腕を、そして声を奪った。いま動かせるのは目と、笑うとわずかに上がる右の口角だけだった。
久我蒼平は毎週水曜、病室へ来た。海外の建築修復計画に選ばれたことを黙ったまま、くだらない話ばかりした。
「駅前のパン屋、また店名変わった」
〈三回目〉
「店主は同じ」
〈迷走中〉
珠季は、彼の鞄からのぞく航空会社の封筒を見ていた。出発は来月。けれど蒼平は、参加を断るつもりだった。看護師が廊下で話しているのを、偶然聞いた。
次の水曜、蒼平はいつもより明るくしゃべった。
「海外の件、断った。やっぱり俺、外国の水が合わないし」
珠季は画面へ視線を走らせた。
〈うそ〉
「硬水で腹を壊す」
〈私のため〉
「自意識過剰」
彼は笑ったが、目をそらした。
珠季は、何週間も登録できずにいた文章を呼び出した。一文字ずつ選ぶ。十六秒かかった。
〈蒼平が好きです〉
彼は目を見開き、それから泣きそうに笑った。
「遅い。俺は七年前から好きだ」
その瞬間だけ、病室の機械音が遠くなった。
恋人になれた、と珠季は思った。
続けて文字を選んだ。
〈だから行って〉
蒼平は椅子を蹴るように立った。
「恋人になって十六秒で追い出すのか」
〈最短記録〉
「笑えない」
〈私は待たない〉
「……分かってる」
〈でも写真は送って〉
「ずるいな」
〈お互いさま〉
彼が残れば、珠季の残り時間はやさしくなる。けれど彼のその先まで、病室の形にしてしまう。好きだと告げたのは、つなぎ止めるためではなかった。好きだからこそ、彼の未来を自分の余命と同じ長さにしたくなかった。
出発の朝、蒼平は空港から通話をつないだ。
「行ってくる」
珠季は画面へ文字を打った。
〈いってらっしゃい、恋人〉
今度は十二秒で入力できた。
飛行機が雲の向こうへ消えたあと、珠季は送られてくるはずの街を想像した。石畳、古い窓、知らない空。
二人が恋人だった時間は十六秒では終わらなかった。
ただその恋は、同じ場所にいる約束ではなく、互いの明日を狭くしないための告白から始まった。