午前九時の実印を押さない

二度目の午前九時、会議室の時計は一秒も狂わず、長針を十二へ重ねた。

有馬遼介の前には、赤い朱肉と会社の実印。向かいでは財務部長の鴻上が、前の人生と同じ角度で契約書を差し出している。

「社長、ここに実印を。今日中に三億入ります。これで資金繰りは片づきます」

前回の遼介は、従業員百二十人の給料を守りたくて押した。三日後、融資元の投資会社が契約の別紙を盾に全債務の一括返済を要求した。鴻上は競合へ移り、会社は黒字受注を抱えたまま破産。最後に見たのは、社員端末へ一斉送信された「事業停止のお知らせ」だった。

人生をやり直したのではない。目を開けたら、実印を持ち上げたこの瞬間へ戻っていた。

ガラス越しの執務室では、総務の若手が給与振込の確認表を抱えて待っている。今日を越えたい気持ちは前回と同じだ。だからこそ、今日だけ越える毒には手を出さない。

だから遼介は印を置いた。

「押す前に、別紙三枚目の第十二条を読み上げてください」

鴻上の笑みが止まる。

「時間がありません。細則ですから」

「担保価値が一円でも下がれば、当社の全取引口座を投資会社が管理できる。しかも担保価値を査定するのは、先方の子会社。これが細則ですか」

同席していた顧問弁護士が契約書を奪うようにめくった。鴻上の指が、机の下へ逃げる。前回は見落とした仕草だった。

遼介は内線を押す。

「経理、今朝の送金予約を全部止めて。鴻上部長名義のものだけ、一覧を監査役へ」

「社長!」

「実印は押さない。代わりに、あなたの解任議案へ押す」

赤い朱肉が、今度は取締役会議事録を染めた。

九時七分。前の人生なら投資会社から「契約成立」の通知が届いた時刻だ。スマートフォンが震える。遼介は画面を伏せずに開いた。

送り主は取引銀行の支店長。

『不審な担保設定を確認しました。緊急融資枠は当行単独で継続します』

その直後、鴻上の端末から小さく着信音がした。顔色を失った彼が、前の人生では一度も口にしなかった言葉を絞り出す。

「……なぜ、知っているんだ」