友達なら、駅まで

「友達なら、駅まで送るよ」

篠宮一成は、夜になると決まってそう言った。

笠原真緒の部屋は駅から十分。明るい大通りをまっすぐ歩くだけなのに、二人で食事をした帰りは、いつも改札からマンションまで一成が隣にいた。友達だから。大学時代から何度も聞いた言葉は、近づきすぎないための柵のようでもあった。

その夜、真緒は明日、知人に紹介された男性と会うことになっていた。断る理由が見つからず、一成にも「行ってみれば」と言われた。笑って言えた彼のほうが、ずっと大人に見えた。

駅前の店を出ると、春の風が強かった。一成は真緒の髪に絡んだ桜の花びらを取って、すぐ手を引いた。

「明日、十一時だっけ」

「うん」

「寝坊するなよ」

それきり二人は黙った。いつもの道が、今夜だけ短い。マンションの灯りが見えたところで、真緒は足を止めた。

「ここでいいよ」

一成も止まったが、帰ろうとしなかった。代わりにスマホを差し出す。来週の日曜、二名で予約された小さなレストラン。真緒が以前、行ってみたいと話した店だった。

「明日の人とうまくいったら、キャンセルする」

彼はそう言いながら、予約画面を閉じられずにいた。親指だけが、頼りなく画面の端をなぞっている。

真緒は自分のスマホを開き、明日の予定を見せた。紹介者へ送った《今回は会わないことにしました》というメッセージには、すでに既読がついている。

「どうして」

「一成が、行ってみればって言ったから」

「それなら行けばよかっただろ」

「友達の助言としては正しいよ」

真緒は彼のスマホを受け取り、来週の予約を承諾した。件名の《食事》を消して、《真緒と一成》に変える。それから返すふりをして、画面を持つ彼の手に自分の指を重ねた。

一成は驚いた顔をしたが、離さなかった。

「これ、友達の予定?」

真緒が聞くと、彼は答えの代わりに指を絡めた。手のひらが、夜風よりずっと熱い。

エントランスを通り過ぎても、二人は歩き続けた。次の角に二十四時間営業の喫茶店がある。

「駅まで送るんじゃなかったの」

真緒が笑うと、一成はつないだ手を少し持ち上げた。

「友達なら、駅まで」

その先へ行く相手の呼び名は、もう二人とも分かっていた。