右手の親指だけ
月に一度、娘は八十四歳の父の爪を切りに行く。
父は昔から、何でも「お前のためだ」と決めた。進学先も、就職先も、結婚相手への態度も。反対すれば、世間を知らないと笑った。
今ではペットボトルの蓋も開けられず、爪切りを握る手も震える。
「短くしろ」
「深爪になるよ」
「昔、お前のはもっと短く切った」
「痛くて泣いた。覚えてる」
父は黙った。
娘は左手から一本ずつ切った。父の爪は厚く、刃を入れるたび乾いた音がした。
「嫌なら来なくていい」
「来たくて来てると思ってる?」
「では、なぜ来る」
その問いが一番腹立たしかった。
「嫌いな父さんを放っておけない自分まで嫌いになるから」
父はしばらく窓を見た。
「悪かった」
「何が?」
「いろいろだ」
「便利な謝り方」
父は言葉に詰まった。昔なら怒鳴って話を終えたはずだ。今は声を荒らげる体力さえない。娘はそれを哀れとも、罰とも思った。
娘は、父が捨てた美術学校の願書のことを言った。夫へ勝手に電話し、娘は家事が下手だから苦労すると告げたこと。母の葬儀で、泣く暇があれば客へ茶を出せと言ったこと。
父は一つずつ聞いた。
「覚えてる?」
「覚えてるものも、忘れたふりをしたものもある」
許してほしいとは言わなかった。その正直ささえ、もっと早ければと思うと憎かった。
最後に右手の親指だけ、少し長く残した。
「切り忘れたぞ」
「蜜柑の皮、むくのに使うでしょ」
娘が籠を指すと、父は親指を爪へ当て、時間をかけて一つむいた。房を半分、娘の皿へ置く。
「いらない」
「そう言わずに」
「昔から、その言い方が嫌い」
父は手を引っ込めかけた。
娘は蜜柑を一房だけ取った。
「嫌いでも、食べることはある」
甘くも酸っぱくもない味だった。
帰り際、父が玄関で言った。
「次は、左の親指も残せ」
「自分で切れるようになったらね」
来月も来るとは答えなかった。
けれど娘は、空になった蜜柑の籠を見て、帰り道の店でまた一袋買った。
爪は伸びる。
愛情も怒りも、切って終わりにはならない。