合鍵を一本だけ

母から電話が来たのは、紬希が二十九歳の誕生日まであと十二日と数えてしまった夜だった。

「玄関の鍵、来週替えるから。新しいの送ろうか」

テーブルには二本の鍵があった。黄色いタグのついた今の部屋の鍵と、青いプラスチックが欠けた実家の鍵。十八で家を出た日から、引っ越すたびに青いほうも連れてきた。深夜に帰れば勝手に開けられる。誰もいなくても、自分の部屋だった場所まで行ける。その権利が、細い金属一本に残っていた。

「送って」と言えば、これまでと同じ未来が続く。帰れる場所を失わない代わりに、どこかで失敗したときの出口として、ずっと鞄の底にぶら下がる。

「いらない」と言えば、次からはチャイムを鳴らすことになる。母が買い物に出ていたら、玄関の前で待つ。たぶん少し寂しい。

母は電話の向こうで、「遠慮しなくていいのよ」と言った。

紬希は青い鍵を指先で回した。遠慮ではなかった。鍵を持つことと、帰ることは同じではない。持たないことと、帰れないことも同じではないはずだった。

「新しい鍵は、そっちに一本置いておいて。帰るときは連絡する」

母は一拍黙り、「じゃあ、お客さん用ってこと?」と笑った。

「娘用。だけど、勝手に入らない娘用」

電話を切ったあと、紬希は二つの封筒を並べた。片方には古い鍵、もう片方には誕生日に届いた更新契約書。先に古い鍵を包み、宛名を書いた。

郵便受けへ落とす直前、青い欠片が封筒の中で小さく鳴った。次にあの扉の前へ立つとき、開けてもらえない可能性もある。それでも紬希は手を離した。

帰る権利ではなく、帰るたびに選ぶ責任を、自分の側に置くために。

翌朝、母から新しい錠前の写真が届いた。食器棚の小皿に、見慣れない銀色の鍵が一本置かれている。紬希は「今度は十月に行く」と日付を送った。返事は、了解、だけだった。予定表に帰省日を入れ、同時にホテルの空室も調べた。泊めてもらえない未来まで考えると、胸は少し冷えた。それでも予定を消さなかった。チャイムを押し、開かなければ別の場所で眠る。その手順まで含めて、次の帰宅を自分の予定にした。