名前を呼ばれるまで
娘の授業参観の日、父は校門の前で立ち止まった。
娘から「来なくていい」と言われていた。油の染みた作業着しかなく、教室で目立つのが嫌なのだろうと思った。
帰ろうとしたとき、校門脇の露店で、薄い灰色の外套を押しつけられた。
「着れば姿が消えます。誰かに名前を呼ばれるまで」
代金も取られなかった。
父は外套を羽織り、誰にも見えないまま教室へ入った。
廊下には保護者が並び、娘は黒板の前で作文を読んでいた。
「私の家の仕事」
娘は、父が町の機械を直す仕事をしていると話した。
夜中でも工場へ呼ばれ、手が真っ黒になり、誕生日に遅れることもある。
教室の端で、誰かが小さく笑った。
娘は作文を止めた。
「でも、止まった機械が動くと、困っていた人が帰れます」
声が震えていた。
「私が来なくていいと言ったのは、仕事を休ませたくなかったからです」
父は息をのんだ。
恥ずかしがられているのは自分だと思っていた。
娘もまた、父が授業より仕事を選ぶと言われるのを恐れていたのだ。
発表が終わり、娘は席へ戻った。
隣の子が、
「お父さん、来てないね」
と囁いた。
娘は机の下で手を握った。
「来ないでって言ったから」
「本当は?」
娘は答えなかった。
父は教室を出ようとした。
姿が見えないまま聞いた本音を、胸にしまって帰ればよいと思った。
廊下で担任が、空いた保護者席を片づけ始めた。
父は外套の留め具を外した。
まだ姿は消えたままだ。
「お父さん」
娘の声が背中からした。
見えているはずがない。
それでも娘は、空の廊下へ向かってもう一度呼んだ。
「お父さん、来てるなら、ここ」
その瞬間、外套が肩から落ちた。
作業着の父が現れ、廊下中が静かになった。
父は油染みの袖を隠さず、空いていた席へ座った。
娘は泣きそうな顔で笑った。
帰り道、父は外套を探したが、床にも露店にもなかった。
代わりに娘が袖をつまんだ。
「次は、来ていいか聞いて」
「来なくていいって言っただろ」
「本音を当てないで。聞いて」
父はうなずいた。
見えなくならなくても、人の心は見えない。
だから次からは、名前を呼ばれるまで待たず、自分から尋ねることにした。