名前札を巣へ持ち帰る
御厨素羽が父の部屋へ戻ったのは、葬儀の五日後だった。
床を走ってきたフェレットの「余白」は、彼女の靴へ鼻を押しつけると、段ボールに貼った〈台所〉の札を剝がし、棚の下へ消えた。
父は、物に名前を貼る人だった。砂糖、塩、予備電池。余白の餌入れにまで〈一日二回〉と書いた。
それなのに、娘の名前だけは呼べなかった。
二十五歳で名前を変えたとき、素羽は父へ手紙を書いた。生まれたときにもらった名を嫌っているのではない。ただ、これから自分として生きるために必要なのだと。
父からの返事は、〈分かった〉の四文字だった。
けれど電話では昔の名が出た。訂正すると黙り、次の電話でも間違えた。三度目に素羽は「もう呼ばなくていい」と言い、それきり二年会わなかった。
棚の下から紙をかじる音がする。素羽が家具を動かすと、余白の隠し場所が現れた。
靴下、瓶の蓋、鍵のないキーホルダー。その奥に、同じ大きさの白い札が何十枚もあった。
〈素羽〉
〈素羽〉
〈素羽〉
父の字だった。最初の札は線が震え、途中から少しずつ整っている。裏には、〈もとは。急がず、最初の音を間違えない〉と書かれていた。
日付を見ると、素羽が電話を切った翌日から始まっていた。父は一日一枚ずつ書き、声に出し、余白に聞かせていたらしい。札の端には細い歯形があり、何枚かは途中まで棚の下へ運ばれていた。
古い録音機もあった。
再生すると、父の声がした。
『素羽』
咳払い。
『素羽、おかえり』
長い沈黙。
『言えないんじゃない。間違えるのが怖くて、呼べないだけだ』
最後に、余白が何かを倒す音と、父の笑い声が入っていた。
『こら。それはまだ練習中だ』
素羽は札を胸へ抱いた。父は間に合わなかった。自分も、待ちきれなかった。どちらかだけが悪い形にすれば簡単だったが、愛情はたいてい、簡単な形へ片づかない。
帰り支度をすると、余白が一枚の札をくわえてきた。
〈素羽、おかえり〉
彼女はそれを新しい飼育ケースへ貼った。
「余白、帰ろう」
家に着くと、余白はすぐ札を剝がし、毛布の奥へ運んだ。
素羽は取り返さなかった。
呼ばれたかった名前が、今度は失くならない場所へ隠されたのだと思った。