名字のない群れ

母が再婚してからも、天辻璃音の名字は変わらなかった。

変えないと決めたのは璃音自身だ。亡くなった父と同じ名字を、まだ手放したくなかった。

けれど小学五年の「家族紹介カード」には困った。母の砂緒と、新しい父の岳澄は同じ名字。自分だけ違う。教室で「本当の家族じゃないの」と聞かれ、璃音はカードを白紙のまま持ち帰った。

母は「書きたくなければ書かなくていい」と言った。岳澄は何も言わず、少し寂しそうに見えた。その顔を見た璃音は、自分が亡き父を守るたび、目の前の誰かを傷つけているようで苦しくなった。

家では、岳澄が水槽の前にしゃがんでいた。再婚した日に迎えた二十匹のネオンテトラが、青い線を光らせて泳いでいる。

「一匹、群れから外れてる」

璃音が言うと、尾の曲がった小さな魚が、水草の陰から遅れて合流した。

「かぎ星だな」

岳澄が勝手に名づけた。璃音は、その名だけは気に入っていた。

水槽の横には餌当番表が貼られていた。岳澄が新しく書き直したらしく、上には〈飼育係〉、その下に〈璃音・砂緒・岳澄〉とある。

「名字、書かないの?」

「三つ並べると場所を取るから」

「二つでしょ。私だけ違う」

岳澄は笑わなかった。水槽を見たまま言った。

「最初は、璃音にも俺と同じ名字になってほしかった。そうすれば家族になれた気がするから。でも、それは俺が安心したいだけだった」

かぎ星が、群れの端で尾を振った。ほかの魚と同じ速さでは泳げない。それでも二十匹は、ときどき形を崩しながら、また一つの流れになった。

「同じ名字じゃなくても、家族?」

「俺はそうなりたい。璃音が決める速さで。お父さんを忘れないままでも」

璃音は初めて、岳澄が亡き父と席を奪い合ってはいないのだと知った。

翌日、璃音は家族紹介カードに三人の似顔絵を描いた。名字の欄には、それぞれ違う形の水草を描き、名前だけを書いた。

先生は「名字を書き忘れているよ」と言った。

璃音は首を振った。

「忘れてません。うちは名前で点呼するんです」

その夜、三人で水槽の水を替えた。岳澄が床へ水をこぼし、砂緒が笑い、璃音は雑巾を投げた。

驚いた群れが一斉に散り、すぐに戻る。

かぎ星も、少し遅れて戻ってきた。

璃音は当番表の余白へ、小さく書き足した。

〈二十匹と三人。全員います〉

家族は、同じ名前でそろうものではなかった。

散らばったあと、戻る場所を一緒に覚えていく群れだった。