名札を裏返す前に
ホテルの受付で渡された名札には、高校時代の姓で「水城依吹」と印刷されていた。
依吹は黒いペンを借りたまま、しばらく立ち尽くした。結婚して三年使った姓は、離婚届と一緒に先月返した。職場ではまだ旧姓に戻す手続きが終わらず、メールの署名だけが取り残されている。どちらを書けば正解なのか、自分でも分からなかった。
名札の角を指でなぞると、卒業式後の教室がよみがえった。窓際の席で、寄せ書き用の制服の背中を差し出した依吹に、久我はなかなかペンを置かなかった。
「名字が変わっても、水城は水城だろ」
当時、母の再婚話を誰にも言えずにいた依吹は、冗談だと思って笑った。結局再婚はなくなり、言葉だけが紺色の制服に残った。けれど制服は引っ越しのたびに邪魔になり、二年前に捨てた。
会場の扉が開くたび、懐かしい姓が飛び交った。名字だけで十七歳に戻されるのが怖くて、依吹は名札を伏せた。戻りたいわけではない。あの頃の自分は、誰かの決定で名前も住所も変わるものだと思っていた。
「水城、そこ空いてる」
振り向くと久我が、昔と同じように椅子を引いていた。彼は名札を見ていなかった。顔を見て呼んだのだと気づくまで、一秒かかった。
依吹は席へ向かう途中、受付で借りたペンを握り直した。伏せた名札を表にし、印刷された名前の下へ、小さく現在の会社名を書き足す。辞めるか迷っている会社だった。それでも、今の自分が過ごした場所だ。
同級生たちは、結婚した者も、親になった者も、何者にもなれていないと笑う者もいた。依吹は質問される前に「先月、名字を戻した」とだけ告げた。慰めも詮索も起きず、「そっか」とグラスが一つ寄った。
帰り際、名札を回収箱へ入れかけて、依吹は思い直した。安全ピンを外し、手帳の透明ポケットに差し込む。
過去の姓ではない。誰かから返された名前でもない。
手帳を閉じる音が、乾杯よりも確かな区切りに聞こえた。
明日、転職サイトの登録欄に打ち込むための、これからの名前だった。