味噌汁の薄い朝
日下部紬が台所に立ったのは、病院から戻って一時間後だった。
明日の朝、入院する。医師は治療の日程を紙に並べ、その先については言葉を選んだ。紬は帰りの電車で何度も封筒を開きかけ、結局、冷蔵庫の上に伏せて置いた。
今夜することは一つだけだった。妹に、味噌汁の作り方を見せる。
鍋に水を張り、昆布を沈める。妹はスマートフォンを構えたまま、「動画で撮ればいい?」と聞いた。紬は首を振った。
「見てれば分かるから」
沸く直前に昆布を引き上げ、かつお節を入れる。火を止めるタイミングだけ、妹の目が真剣になった。紬は豆腐を手のひらで切り、ねぎを散らした。いつもなら目分量の味噌を、今日は小さじで量る。
一杯目は濃かった。妹が何も言わず水を足そうとしたので、紬は柄杓を受け取った。
「それだと、だしまで薄くなる」
鍋から少し取り、だしだけを足す。もう一度味を見る。舌の上に、家で起きた朝の数だけ知っている塩気が残った。
妹が椀を二つ並べた。食卓には病院の封筒も、薬の袋も持ってこなかった。二人で黙ってすすり、豆腐を崩した。妹は途中で席を立ち、冷蔵庫から味噌の容器を出すと、蓋に油性ペンで「二人で大さじ一」と書いた。
紬は訂正しなかった。入院が何日になるかも、二人で食べる朝があと何回あるかも、その文字には関係がない気がした。
食べ終えると、妹が鍋を洗おうとした。紬はスポンジを取り、底の小さな焦げを円を描いて落とした。水を切り、伏せた鍋の隣に柄杓を置く。
妹は空になった椀へ水を張り、もう一度だけ手順を口にした。昆布は沸く前、かつお節は火を止めてから。味噌は煮立てない。途中で順番を間違え、紬は一か所だけ直した。妹は油性ペンで味噌の蓋へ小さな矢印を足し、紬の字より丸い文字で「だしを足す」と書き添えた。二人分だった食卓が、明日の朝から一人分になることには触れなかった。
妹は柄杓の向きも紬と同じに揃えた。明朝、迷わず手が伸びる位置だった。
最後に、味噌の蓋をきちんと閉めた。