呼ばない名前
真壁依都が母の部屋を片づけていたのは、葬儀から七日目の夜だった。
箪笥の奥から、使いかけの口紅と古い診察券が出てきた。捨てる袋へ入れようとしたとき、背後で引き出しの閉まる音がした。
振り返ると、母が座っていた。
病院で最後に見た痩せた姿ではなく、台所に立っていた頃の母だった。花柄の割烹着を着て、髪に一本だけ白いものが混じっている。
依都は息を吸った。
母の名前を呼びかけた瞬間、母の輪郭が薄くなった。
「待って」
名前を飲み込むと、母はまた濃くなった。
それから二人は、名前を使わずに話した。
「どうして病院を変えたこと、教えてくれなかったの」
「教えたら、帰ってきたでしょう」
「帰って何が悪いの」
「あなた、ようやく自分の店を持ったところだったから」
依都は小さな仕立て屋を始めたばかりだった。母の具合が悪いと知れば、迷わず閉めていた。それを母は知っていた。
「勝手だよ」
「親って、だいたい勝手なのよ」
「最後まで?」
「最後だから」
腹が立った。けれど怒鳴れば、名前を呼んでしまいそうだった。
依都は口紅の蓋を開けた。母が若い頃から使っていた赤だった。
「これ、似合わないって言ったよね」
「あなたが高校生のときね」
「本当は、羨ましかった」
「知ってた」
「なんで」
「娘の悪口は、半分が羨ましいなの」
母は笑った。
その笑い方まで、生きていた頃と同じだった。
午前三時、二人で台所へ行った。依都が湯を沸かし、母は空の椅子に座った。湯呑みは一つだけでよかった。母はもう飲めないことを、二人とも話題にしなかった。
夜明け前、窓が青くなる。
母の姿が、少しずつ透け始めた。
「まだ言ってないことがある」
依都は焦った。
恨んでいたこと。寂しかったこと。仕事を褒めてほしかったこと。たくさんありすぎて、どれも口から出ない。
母が先に言った。
「あなたの縫う服、好きだった」
依都の喉が痛んだ。
欲しかった言葉は、それだった。
朝日がカーテンの隙間から入る。
母はもう、向こうの壁が見えるほど薄い。
依都は立ち上がり、母の名を呼んだ。
「八重」
母は一瞬だけ、はっきりと笑った。
それから椅子が空になった。
名前を呼べば消えるのだと、依都は最初からわかっていた。
だから最後まで取っておいた。
呼ばないことは引き止めることだった。
呼ぶことは、ようやく母を母ではない一人の人として見送ることだった。