呼び名のない定食
四年ぶりに父と向かい合ったのは、駅前の古い定食屋だった。
父は椅子に座るなり、店員へ言った。
「この子は焼き魚。ご飯は少なめで」
紗良はメニューを閉じかけた手を止めた。二十六歳になっても、父の口から出る「この子」は、小学生のころと同じ高さで頭の上に置かれる。
「私は生姜焼きにします。ご飯は普通で」
店員は一瞬だけ父を見てから、紗良へうなずいた。
父は湯のみを持ち上げた。
「脂っこいもの、昔から胃にもたれるだろ」
「今は平気」
「無理するな。お前は自分のことが分かってないから」
テーブルの木目には、何度も拭かれた白い筋があった。紗良はその一本を指でなぞり、言い返す代わりに水を飲んだ。ここで昔の話を始めれば、食事が届く前に息が詰まる。今日はただ、一食を自分で選ぶために来た。
生姜焼きが運ばれる。父の前には焼き魚。店員が「ご注文はこちらでよろしいですか」と尋ねると、紗良は自分の皿だけを見て「はい」と答えた。
父は味噌汁の蓋を取った。
「それで、いつまで名字で呼ぶつもりだ」
待ち合わせの電話で、紗良は父を「高瀬さん」と呼んだ。父は聞き間違いだと思ったらしい。
「しばらく」
「親に向かって他人みたいだな」
「他人になりたいわけじゃない。でも『お父さん』って呼ぶと、私は何でも言うことを聞く子どもに戻るから」
箸を持つ父の指が止まった。謝罪はなかった。そんな言い方は大げさだ、とも言わなかった。ただ焼き魚の骨を外し、皿の端へきちんと並べた。
紗良は生姜焼きを一枚食べた。濃い味がした。父の選ばなかった味だった。
会計で父が二人分を払おうとしたので、紗良は自分の伝票を先に取った。
「高瀬さん、今日はここまでで」
父は財布を開いたまま、少しだけ眉を寄せた。
「次も、その呼び方か」
「次があれば、たぶん」
店の外は夕方の風が強かった。父は紗良の上着を気にするように見たが、何も言わなかった。
紗良は先に駅へ歩き出した。背中から「紗良」と呼ばれた。振り返ると、父は定食屋の暖簾の下に立っていた。
彼女は返事をせず、けれど立ち止まった。呼び名のない数秒を、二人のあいだに置いた。