命令を覚える白鹿

春狩りの祝宴で、聖なる白鹿が聖女候補へ角を向けた。

 護衛が取り押さえるより早く、ハドレク王子は婚約者を指した。

「メルヴィナ・ローデル。獣使いの名門である君が命じたのだろう。王家の客を害した罪により、婚約を破棄する」

 白鹿を人に慣らしたのはメルヴィナだった。三年間、餌より先に「人へ角を向けない」と教え、王子が見世物に使おうとするたび止めてきた。その彼女を、ハドレクは一度の確認もなく犯人と呼んだ。聖女候補は彼の胸へ縋り、客たちはもう処罰の重さを囁いている。

 広間には、待っていたようなざわめきが広がった。白鹿は怯えて脚を震わせているのに、王子は一度も獣を見ず、メルヴィナの処刑方法ばかり口にした。メルヴィナは泣かなかった。白鹿の首輪へ目をやり、証拠魔導士イグナーツへ手を差し出す。

「昨月、狩場の安全規則を改めました。その際に取り付けた命令残響晶を」

 イグナーツは黙って、小さな水晶を彼女の掌へ置いた。擁護の言葉はない。それでよかった。これは彼女自身が制定し、自分にも例外なく適用した記録魔法だった。

 メルヴィナが水晶へ息を吹きかける。白い光が広がり、獣へ最後に届いた命令が、声と魔力紋を伴って再生された。

『角をあの娘へ向けろ。私が止めれば、皆は英雄を見る』

 響いたのはハドレクの声だった。光の中には王子の金色の魔力紋まで浮かんでいる。

「違う、声を似せたのだ!」

「残響晶は声ではなく、命令者の魔力を記録します。殿下も規則へ署名なさいました」

 ハドレクの顔から血の気が引いた。やがて彼は、婚約破棄は取り消す、王妃になれば今日の失言も忘れられる、と早口で言い始めた。

「失言ではなく、命令です」

 メルヴィナは婚約指輪を外し、白鹿の首輪の横へ置いた。

「破棄を受諾いたします。ですが、わたくしの名誉は返していただきます」

 そして元婚約者に背を向けた。イグナーツは法廷へ向かう扉の前で、何も決めつけずに手を差し出していた。彼女は自分で選び、その手を取った。