地図の裏側を歩く

二十七歳の夕映は、会社から駅までの最短距離を、信号の秒数まで知っていた。改札に着くのは十九時十二分。コンビニで夕食を買う日は十九時十五分。予定が狂わないことだけが、最近の彼女を安心させていた。

本当は、半年前から異動願いの下書きを保存している。けれど提出すれば、慣れた席も、失敗しない手順も手放すことになる。下書きは毎週金曜に開かれ、日曜の夜にまた閉じられた。同期に食事へ誘われても、帰宅時刻がずれるというだけで断り、そのことを安心と呼んでいた。

その夜、歩道橋の下で、ひとりの旅人が地図を広げていた。山歩きの格好なのに、キャリーケースには台所用の泡立て器が三本くくりつけてある。地図は裏返しで、白い面に青い線が何本も走っていた。

「駅はどちらですか」

夕映が指さすと、旅人は首を振った。

「最短じゃないほうを教えてください」

そんな道案内は初めてだった。夕映は迷った末、川沿いを回る道を説明した。旅人は礼の代わりに、地図の端を一センチだけ破って渡した。白い紙には「三つ目の角で、いつもの選択をしない」と書かれていた。

「何のためですか」

「角を曲がった人にしか分かりません」

旅人は泡立て器を鳴らしながら、駅と反対へ歩いていった。

翌日も夕映は十九時に会社を出た。上司から届いた「明朝までに見ておいて」という資料をスマートフォンに保存し、いつものように歩道橋を渡る。一つ目の角は薬局、二つ目はクリーニング店。三つ目には、今まで気づかなかった細い坂道があった。

曲がれば、電車を一本逃す。夕食の時間もずれる。資料を読む時間も減る。

夕映は立ち止まり、紙片を取り出した。裏はただの白だった。正解も、励ましも、未来の保証もない。

坂の上から、パンを焼く匂いが降りてきた。坂道の先には、古い商店の灯りと、見たことのない小さな公園がある。そこを歩く自分の予定だけが、手帳のどこにもなかった。十九時十二分はもう過ぎている。スマートフォンが震え、上司の名前が光った。画面の奥には、異動願いの下書きも眠っている。

夕映は通知を伏せ、三つ目の角を右ではなく、坂のほうへ曲がった。