塩を振らないそら豆
棚橋奏多が「灯路」の引き戸を開けたのは、八か月ぶりだった。
勤め先の移転で帰り道が変わり、わざわざ二駅戻るほどの余裕もなくなった。今夜は昔の取引先へ挨拶に来たついでだ。カウンターには奏多しかいない。店主は驚いた顔もせず、冷蔵庫から青い莢をひと皿分取り出した。
「まだ、塩なしでいいか」
注文する前だった。
奏多は少し遅れて頷いた。前に通っていたころ、焼きそら豆だけは塩を振らずに頼んでいた。莢の内側に移った塩気と、豆そのものの甘さで十分だと、一度話しただけだった。
網の上で莢がぱちりと裂け、薄い煙が上がる。焦げた青臭さの奥に、若い豆の匂いが混じった。皿へ置かれた莢を開くと、白い綿のあいだから湿った湯気がほどけ、指先へ熱が移った。
スマートフォンには、半年前に解散した開発チームの仲間からメッセージが来ている。
〈もう一度、二人でサービスを作らないか〉
最初の会社では、資金が尽きる直前まで「まだいける」と言い続けた。給料が遅れ、仲間が去り、最後は自分も逃げるように転職した。今の会社は穏やかで、残業代も出る。失う理由はない。それでも、添付された企画書を三度開いた。
参加する、と返せば無責任に思えた。断れば、怖がっただけになる気がした。その間で八日間、既読すらつけていない。
店主は焦げた莢を一つ裏返した。
「中まで焦げるわけじゃない」
料理の話だった。奏多は豆を口へ入れた。皮のすぐ下は熱く、噛むと青い甘さが広がった。塩がないぶん、わずかな苦みも隠れなかった。
奏多は返信欄に、参加とも不参加とも書かなかった。
〈明日の朝、三十分だけ話せる? 企画書で聞きたいところがある〉
送信すると、胸が軽くなる代わりに、久しぶりの怖さが形を持った。会えば断れなくなるかもしれない。反対に、昔の傷を理由に相手を責めるかもしれない。
それでも明日は、返事ではなく質問をする。
最後の豆は少し冷め、最初より甘かった。爪の脇に残った莢の熱と、塩を振らない味だけが、帰りの電車まで消えなかった。