壁が薄くてよかった

波多野小春と石動彗は、二年間、壁を叩いて会話した。

一回は「うるさい」。

二回は「ありがとう」。

三回は「まだ起きてる?」

築四十年のアパートは、隣室のくしゃみまで聞こえた。最初は迷惑だった。けれど小春が就職試験に落ちた夜、壁の向こうから三回鳴り、泣きやむまで五分おきに繰り返された。それから二人は、廊下で会えば天気の話しかできないくせに、壁越しなら眠れない理由まで話した。

彗の引っ越し当日、家具を運び出した隣室は、いつもより音がよく響いた。

「そっち、もう空っぽ?」

小春が壁に向かって訊く。

『冷蔵庫だけ。霜が溶けない』

「五年も外国へ行く人が、最後に戦う相手それ?」

『家具修復の学校より難しい』

彗は翌朝、フィンランドへ発つ。小春は母の店を継ぐと決めていた。互いに知っていたから、行かないでとも、一緒に来てとも言わなかった。

やがて水を拭く音が止まった。

壁の向こうで、彗が小さく言った。

『好きだった』

小春は拳で壁を一度叩いた。

「うるさい。過去形が」

沈黙のあと、彼が言い直す。

『好きです』

「二年も隣にいたのに、どうして今日なの」

『今日なら、断られても引っ越しのせいにできる』

「ずるいね」

『知ってる』

小春は額を壁につけた。冷たい壁紙の向こうに、同じ姿勢の彗がいる気がした。

「私も好き」

『じゃあ、付き合って』

「それは言わないで」

彼の息が止まったのが分かった。

「待つ約束をしたら、あなたは帰るために学ぶでしょう。私も待つためにここに残る。そんなふうに、お互いの未来を借金にしたくない」

『……じゃあ、何のための告白?』

「好きだった時間が、勘違いじゃなかったって知るため」

廊下から引っ越し業者の声がした。

彗は壁を二回叩いた。ありがとう。

小春も二回返した。

玄関の扉が閉まり、足音が階段を下りていく。トラックのエンジンが遠ざかってから、小春は三回叩いた。

まだ起きてる?

返事はない。

代わりに、家具のなくなった隣室へ音が抜け、ひどく寂しい反響だけが戻った。

小春は泣きながら笑った。

壁が薄くてよかった。

厚かったなら、二人は最後まで、ただの感じのいい隣人だった。