壁の向こうで湯が沸く
蓮見が今の部屋へ越してきて、十二日目の雨だった。
窓ガラスを細い雫が伝い、エアコンは温度を探すように弱くなったり強くなったりする。冷蔵庫が低く唸り、止まる。そのたび、壁の向こうから電気ケトルの湯が騒ぐ音が聞こえた。
隣の人は、夜に何度も湯を沸かす。
十一時半、零時十分、一時少し前。沸騰するとスイッチが乾いた音で戻り、しばらくして陶器を置く小さな音がする。蓮見は顔も名前も知らないその人の夜を、三度の湯沸かしだけで覚えてしまった。
前の部屋では、湯はいつも二杯分だった。同棲をやめる話より先に、どちらが青いマグを持っていくかを決めた。蓮見は白い方を選んだ。好きだったからではなく、相手が青を手に取ったからだった。
段ボールはもう一箱だけになった。箱の側面には、黒いペンで「食器・予備」と書いてある。開ければ、来客用のカップや二人分の小皿が出てくる。けれど来客の予定はない。蓮見は床に座ったまま、雨と冷蔵庫と、壁の向こうのケトルを聞いていた。
二時を過ぎても、四度目の湯は沸かなかった。
いつもと違う静けさに耳を澄ませている自分に気づき、蓮見は少し可笑しくなった。隣の人にも、湯を飲まない夜がある。ただそれだけのことだった。
立ち上がり、自分のケトルへ一杯分の水を入れた。回転するような水音が底でほどけ、青いランプが点く。壁の向こうは静かなままだった。
湯が沸くまで、蓮見は「食器・予備」の箱を開けた。白いマグだけを出し、残りはまた閉じた。箱の底から個包装の紅茶を一つ見つける。賞味期限はまだ先だった。誰かが来た日に出すつもりで取っておいたものを、自分のために開けた。薄い紙を破る音が、知らない部屋に小さく馴染んだ。雨は同じ速さで窓を流れ、エアコンが一度止まり、冷蔵庫がまた動き出した。
スイッチが戻る。白いマグへ注ぐと、湯気が眼鏡を曇らせた。
向こうから音はしなかった。それでも蓮見は、冷める前に一口飲んだ。今夜の湯は、一杯分で足りた。