壁紙の向こうの雨
宇賀神澄璃の部屋では、雨が降ると窓辺に妻が現れた。
正確には、妻が生きていた最後の春を再現する居住拡張サービス《ホームスキン》が、古い壁紙も、焦げたトーストの匂いも、窓を叩く雨音も上書きしていた。妻は台所で鼻歌を歌い、「傘、忘れないでね」と毎朝同じことを言った。
澄璃は二年間、その言葉にうなずいて出勤した。玄関の向こうが更地になっても気づかなかった。老朽化した団地はすでに解体され、彼女が暮らしているのは仮設住宅の六畳間だったが、視界には昔の廊下が伸び、隣人の鉢植えまで揺れていた。立退き通知も補修警告も、サービスが「悲嘆を悪化させる生活雑音」として消していた。現実の管理人が扉を叩いても、澄璃には昔の隣人が回覧板を置く音にしか聞こえなかった。自分で選んだ思い出が、いつの間にか外から届く声を翻訳していた。
ある夜、本物の雨漏りがした。
天井から落ちた雫は、仮想の食卓を突き抜け、妻の肩を通って澄璃の手の甲に当たった。冷たかった。妻は何も感じず、いつもの笑顔で言った。
「傘、忘れないでね」
澄璃は初めて、その声が記憶ではないと悟った。妻が残した会話記録から、AIがもっとも妻らしい一文を選び続けているだけだった。自分は思い出と暮らしていたのではなく、思い出らしさに飼われていた。
レンズを外すと、部屋は白く、狭く、段ボールだらけだった。妻はいなかった。窓の外には、泥の駐車場と、曲がった街灯があった。あまりにみすぼらしくて、澄璃は笑い、そのまま泣いた。
翌朝、彼女はホームスキンを解約しなかった。代わりに、一日一時間だけ表示する設定にした。妻の鼻歌を聞きながら箱を片づけ、時間が来ると自分の手で消した。
数週間後、また雨が降った。窓辺に妻はいない。澄璃は傘を持たずに外へ出た。
冷たい雨が髪を濡らした。現実は優しくなかったが、同じ場所に二度と降らない雨だった。澄璃は顔を上げ、妻の言葉ではなく、自分の声で言った。
「今日は、忘れていこう」