壊れた椅子を直す午後

鴨脚珠生が三十二歳になるまで、壊れた物は一つもなかった。壊れる前に家屋AIが交換し、古い物は眠っている間に回収されたからだ。

祖母の食卓椅子が折れた日も、天井から穏やかな声が降った。

「同型品を三分で搬入します」

「いらないよ」

祖母は床に座ったまま答えた。「裏を見てごらん」

座面の裏には、鉛筆の線が何本もあった。珠生の父が幼い頃、背が伸びるたび祖父が刻んだ印だという。父は珠生が生まれる前に死んでいる。写真の中でしか知らない人の成長が、傷として残っていた。

珠生は交換を止め、保存館から工具を借りた。動画は手首の角度まで教えてくれたが、木は説明どおりに割れなかった。釘は曲がり、指を打ち、掌に豆ができた。家屋AIは二百三十七回、作業代行を提案した。

祖母は作業中、口も手も出さなかった。ただ、珠生が釘を抜くたび「お祖父さんも最初は壁に穴を増やした」と笑った。珠生は、家族の中で器用だった人も、最初から器用だったわけではないと初めて知った。失敗は履歴から消す不具合ではなく、誰かが上達する途中に残す印だった。

夜、珠生は交換された家具ばかりの自宅を見回した。どれも傷一つなく、いつ買ったかさえ覚えていなかった。椅子の傷だけが、時間を持っていた。

三日後、椅子は立った。ただし少し傾いていた。

祖母は腰を下ろし、ぎしりという音に眉をしかめた。

「前より座りにくいねえ」

珠生がうなだれると、祖母は笑い、継ぎ目を撫でた。

「でも、これは捨てられないね」

翌年、祖母は亡くなった。椅子は空いたまま残った。珠生は週に一度、近所の壊れ物を持ち寄る会を始めた。直せない物のほうが多く、直した物もたいてい不格好だった。

会では、割れた皿を金継ぎせず紐で吊るす人、動かない玩具を箱のまま飾る人もいた。修理できなければ、その物について話した。誰が使い、なぜ捨てたくないのか。珠生は、直すとは元通りにすることだけではないと覚えた。

子どもに「何がもらえるの」と聞かれ、珠生は傷だらけの手を見た。

「次に何かが壊れたとき、すぐ捨てずに済む癖かな」

誰も働かなくてよい時代に、彼女は初めて、失敗の残る午後を自分のものにした。