声だけが残る部屋

九時七分、久津見理一の声が途切れた。

大学の配信棟にある朗読スタジオは、扉が一つ、窓は二重の固定硝子だった。久津見は新作の最終章を生放送で読むため、八時四十五分に一人で入室した。九時、放送開始。七分後、彼は「盗作した者の名を、いまから読む」と告げ、息を吸った。そこで音が消えた。

ディレクターの鳴滝祥子、音響担当の鷺沼冬馬、担当編集の兼平知世は、ずっと隣の調整室にいた。三人の目の前にはスタジオの唯一の扉があり、誰も出ていない。鷺沼が予備鍵で開けると、机に原稿用タブレットと冷めた水だけが残り、久津見はいなかった。

「誰かが壁を開けたんですか」と兼平が言った。

「この棟に隠し通路はない」と鳴滝は即答した。

私は設備図を閉じた。見るべきものは三つしかなかった。

一つ目。声の中では六度、紙をめくる音がしたのに、机上の原稿はタブレットで、表示は冒頭ページのままだった。

二つ目。九時三分、久津見は「屋根を叩く雨が強くなった」と読んだ。しかし雨は八時三十八分に止み、屋上の雨量計もそれ以降ゼロだった。

三つ目。鷺沼の卓に残る波形では、九時一分と九時五分の咳払いが、長さも高さも完全に同じだった。

鳴滝は「でも、私たちは声を聞いていた」と食い下がった。

「声を聞いたことと、本人が中にいたことは同じではありません」

鷺沼の指が、再生停止キーから離れた。

三人にはそれぞれ沈黙させたい理由があった。鳴滝は放送延期を拒み、兼平は盗作疑惑の記事を止めようとし、鷺沼は久津見と学生時代から親しかった。だが動機を並べても、人は壁を通れない。先に確かめるべきは、九時に聞こえたものの正体だった。

久津見は八時台のリハーサルで七分間を録音し、遮音カーテンが閉じられた八時五十二分に普通の扉から出た。九時に鷺沼が録音を流せば、三人は空室を見張りながら本人を閉じ込めたと思い込む。紙の音、止んだ雨、同一の咳は、すべて録音だった証拠だ。

「盗作者の名を読む」という文は、追跡を七分遅らせるための餌だった。久津見はその間に資料を持って新聞社へ向かったのだろう。

私は空のスタジオを指した。

「密室が成立した九時には、久津見さんはもう、この部屋にいませんでした」