大根おろしの雪解け

須賀真冬が、大学時代の友人三人とみぞれ鍋を囲んだのは、退職した翌日の夜だった。

会社を辞めたことは、まだ誰にも言っていない。今日も仕事帰りのふりをして紺色のジャケットを着てきた。グループチャットには「繁忙期でへとへと」と送った。嘘ではない。昨日までは、本当にそうだった。

退職届を出した帰り、三人の名前が浮かんだ。それでも連絡先を開いただけで閉じた。慰められれば泣き、励まされれば元の自分へ戻らなければならない気がした。今夜も最後まで笑って帰るつもりだった。

卓上鍋の蓋が開くと、柚子の香りを含んだ湯気が上がった。大根おろしは雪のように白菜へ積もり、真冬の前には厚い陶器の取り皿が置かれた。両手で持つと、熱が指の節までゆっくり届く。

幹事役の友人は、真冬の皿だけに白菜を一枚多く入れた。学生のころ、鍋会の買い出しで金が足りなくなり、二人で白菜ばかり食べたことを覚えているらしい。

「最近、眠れてる?」

それだけ聞かれた。真冬は答えず、大根おろしを崩さないよう、白菜を端から噛んだ。柚子の香りはしたが、味はよく分からなかった。

鞄には離職票が入っている。辞めた理由は、上司の叱責でも長時間労働でもない。朝、改札を通れなくなったからだ。足が止まった自分を、弱いと知られるのが怖かった。

二枚目の白菜を取ろうとして、真冬は箸を止めた。友人が鍋の火を弱め、何も言わず取り皿を鍋のそばへ寄せた。急がなくていい、という動作に見えた。学生のころから、その友人は真冬が言葉を探している間だけ、鍋を煮立たせない人だった。

真冬は最初の一枚を半分だけ残した。いつもなら、皿をきれいにしてから次を取る。けれどその夜は、残った白菜の横へ豆腐を一つ置いた。

食べきれないものがあっても、次を取っていいのだと思った。

帰り際、友人が「来月も鍋にしよう」と言った。真冬は予定表を開き、平日の欄を避けずに丸をつけた。

そしてグループチャットへ、四文字だけ送った。

〈会社、辞めた〉

送信後、皿に残した白菜の白い芯を思い出した。あれは食べ残しではなく、話を続けるために置いてきた一口だった。