天井まで届いた青
文化祭前日の教室には、脚立の上にいる黒瀬汐里と、床で絵の具を混ぜる御影惟人しか残っていなかった。
二年四組の出し物は「海底喫茶」。天井から吊るす巨大なクジラが、まだ片側だけ白い腹を見せている。みんなは買い出しを理由に帰り、絵が得意というだけで汐里が仕上げを任された。惟人は「高いところが危ないから」と残ったが、脚立には一度も上らなかった。
「青、足りない」
「水色ならある」
「海の底にしては明るすぎる」
「文化祭くらい、明るい海でいいだろ」
汐里は笑い、刷毛を伸ばした。あと少しで背中まで塗れる。つま先立ちになった瞬間、脚立が小さく鳴った。
惟人が両手で支える。
「落ちるなよ」
「落ちたら受け止めて」
「無理。クジラならいける」
「私より大きいのに?」
「紙だから」
刷毛の先が天井へ触れ、青い点を残した。汐里は慌てて拭こうとしたが、今度は腕から絵の具が垂れ、制服の袖に長い筋がついた。
「最悪」
「記念になる」
「明日も着るんだけど」
惟人が雑巾を差し出す。その手の甲にも青がついていた。脚立を押さえたとき、垂れた絵の具を受けたらしい。
二人で黙ってこすった。天井の点は薄くなっただけで消えず、袖の染みはさらに広がった。
「もう、残そうか」と惟人が言った。
「先生に怒られる」
「クジラの潮ってことにする」
「天井から?」
「海底喫茶だから、上も海だろ」
汐里は刷毛を置いた。
それから惟人の手の甲へ、自分の指で小さな青い線を一本足した。
「何すんの」
「そっちだけ記念なの、ずるいから」
惟人は言い返さず、汐里の袖の染みを見た。その視線が妙に長くて、汐里はまた脚立へ上った。
閉門の放送が流れるころ、クジラはようやく青くなった。教室を出る前、二人で電気を消す。廊下の明かりだけになると、天井の青い点は夜空の星のように見えた。
翌日、客は誰もその点に気づかなかった。クジラの腹を見上げ、クリームソーダを飲み、写真を撮って帰った。
汐里が覚えているのは、売上でも混雑でもない。
閉店後、袖の青を指した惟人が「まだ残ってる」と笑い、自分の手の甲を見せたことだ。
洗えば落ちる絵の具を、二人とも文化祭が終わるまで洗わなかった。