妻を待つ椅子

妻が戻るまで、この椅子には誰も座らせない。

そう言うと、若い刑事は食卓の脇に立ったまま手帳を開いた。椅子は一脚だけ、窓に向けて置いてある。背もたれの木目が夕日に濡れ、誰かの肩のように見えた。

「奥さんが出ていったのは、昨夜の九時ごろですね」

私はうなずいた。買い物に行くと言い、財布だけ持って出た。コートも携帯電話も残っている。帰宅すればすぐ分かるよう、玄関灯は朝からつけたままだ。

足元で老犬が低く唸った。歯を見せ、私が一歩動くたびに後ずさる。刑事が少し首をかしげた。

「ご主人にも警戒するんですか」

「妻がいないと神経質になるんです」

私は犬を廊下へ追いやった。右手の結婚指輪がきつく、指の根元に赤い筋ができていたので、手をポケットに隠した。

刑事は、妻の服装、よく行く店、実家との仲を順に尋ねた。私は迷わず答えた。紺のワンピース。駅前のスーパー。実家とは疎遠。昨夜から、家の中を歩きながら何度も唱えた順番だ。

「お二人は、どこで知り合ったんです?」

その質問だけは用意していなかった。

「大学です」

「奥さん、高卒だそうですが」

私は咳をして、昔のことだから、と笑った。刑事は訂正せず、手帳の同じ場所を鉛筆で二度なぞった。

台所の時計が六時を打つ。湯を沸かし、二人分のコーヒーを淹れた。刑事は受け取ったが、口をつけない。カップの湯気だけが、私たちの間で細くほどけた。

「捜索願を出したのは、ご主人ですね」

「もちろんです。妻を見つけてほしい」

それは嘘ではない。どうしても見つけなければならない。私は窓辺の椅子に目をやり、背もたれに残る浅い傷を親指で隠した。

その考えを顔に出す前に、玄関の鍵が回った。

先に入ってきたのは年配の刑事、その後ろに、雨で髪を濡らした女がいた。女は私ではなく窓辺の椅子を見て、息を止めた。

「その人です」と女は言った。「昨夜、夫をあの椅子で殴った人です」

若い刑事の手が腰へ動く。私は座面の裏へ指を差し入れた。そこに刃物を貼ったのは、妻が戻ったとき、今度こそ誰にも邪魔をさせないためだった。