婚姻届を出さない朝
薪浦叶芽は、朝食の皿と皿のあいだに婚姻届を置いた。
サミール・ナハスは、焼きすぎたトーストをかじる手を止めた。
勤務先の貿易会社が倒産し、在留資格の期限はあと三十日。次の雇用先は見つからず、彼は故郷へ帰る航空券を買っていた。
「これは、プロポーズ?」
「そう」
「それとも、滞在許可?」
「……両方では駄目?」
三年間、一緒に暮らした。
叶芽は彼の作る豆の煮込みが好きで、サミールは彼女が眠る直前だけ方言に戻るのを愛していた。結婚の話も何度か出た。そのたび、仕事が落ち着いたら、家族へ説明できたら、と先へ延ばした。
用紙の添付欄には、二人の国籍を証明する書類が並んでいた。
叶芽の国籍は一行で済む。
サミールのものには翻訳と認証が必要だった。
「今まで結婚しなかったのに、僕が帰されると決まったらするの?」
「帰されたくないから。好きな人と暮らしたいから」
「その二つを、僕は一生分けられなくなる」
叶芽は唇を噛んだ。
「結婚してから考えればいい」
「喧嘩するたび、僕は思う。君は僕をここに置いてくれた。別れたくても、恩知らずになる」
「そんなふうに思わないで」
「思うかどうかは、僕が決めることだよ」
彼は婚姻届を丁寧に二つ折りにした。
破らなかったことが、かえって悲しかった。
「普通の火曜日に、これを出したかった」
「今日も火曜日だよ」
「出国期限を数えない火曜日に」
空港へ向かう朝、二人は同じ電車に乗った。
叶芽は何度も、今からでも役所へ行こうと言いかけた。サミールも何度も、帰国をやめると言いかけた。
どちらも言わなかった。
手荷物検査場の前で、彼は合鍵を返した。
叶芽は婚姻届を渡した。
「持っていくの?」
「いつか、ただの紙になるまで」
「いつか、普通の火曜日が来たら?」
「そのときは、新しい紙に書こう」
約束ではなかった。
国を越えれば仕事も家族も時間も変わる。再会できる保証はない。
サミールが列へ入る。
叶芽は手を振らず、彼の姿が消えるまで立っていた。
家へ戻ると、食卓には二人分の皿が残っていた。
婚姻届だけがなくなっている。
二人は国籍の違いで愛せなかったのではない。
愛を、滞在する権利の証明に変えないために別れたのだった。