実家に帰る練習
榧森が帰宅すると、台所から妻の声が聞こえた。
「もう限界です。明日、実家に帰ります」
「子どもも連れていきます。あの人には、まだ言わないでください」
榧森は玄関で固まった。妻は背中を向け、片耳にイヤホンを入れている。誰かと電話しているらしい。
「信じていたのに、何度言っても同じことの繰り返し。もう疲れました」
榧森は鞄を落とした。
「待ってくれ!」
「きゃっ。いつからいたの」
「『限界』のあたりからだ。そんなに追い詰めていたなんて知らなかった」
妻は目を瞬いた。
「積み重ねって怖いものね」
「やっぱり俺の靴下か。脱いだ場所から洗濯機まで一メートルなのに、なぜ運べないのか自分でも分からない」
「靴下?」
「マヨネーズの蓋も閉める。休日に昼まで寝ない。君のお母さんが来たとき、急に新聞を読み始める癖も直す」
「ずいぶん出てくるわね」
「書斎の奥に隠してある新しい釣り竿も売る」
「隠してあったの?」
「今はそこを追及しないでくれ。あと、先月の結婚記念日を忘れたのも悪かった」
「誰も聞いてないのに、自白が止まらないわね」
「全部悪かった。子どもはどうする」
「連れていくって言ったでしょう」
「月に二回は会わせてほしい」
「二回でいいの?」
「いや、毎日だ! でも君の実家は新幹線で三時間だし」
「実家は舞台の上よ」
「舞台?」
妻はイヤホンを外し、冷蔵庫に貼った紙を指した。『PTA親子劇 嫁の反乱・台本』とある。
「明日の稽古。台詞を録音して確認してたの。あなた、『帰ります』のところで入ってきたから」
「じゃあ、離婚は」
「しません」
「子どもも」
「劇では連れていきます。うちの子、植木鉢の役だけど」
そこへ息子が段ボール製の葉を頭につけて現れた。
「お母さん、次は『お義母さま、私は植木鉢までいただきます』だよ」
「そうだった」
榧森は床に座り込んだ。
「心臓が三年分くらい縮んだ」
「じゃあ稽古の相手をして。夫役が休みなの」
「今、本物の夫役で精いっぱいだよ」
妻は台本へ目を戻してから、ふと思い出したように言った。
「ところで、冷蔵庫のプリンを食べたのはあなたね」
「それは実家に帰られても仕方ない」