宿屋は勇者を待たない

宿屋の女将エルダは、二十二年間、同じ言葉で畝森叶慈を迎えた。

「お帰りなさい、勇者さま。北の塔に魔王が待っています」

叶慈は毎晩、塔へ行かず、暖炉の前に座った。若いころは攻略組の剣士だったが、妻を亡くしてからは戦う気力もなくした。妻のキャラクターが最後にログアウトした席へ、蜂蜜酒を二つ並べるだけだった。

ある夜、エルダが蜂蜜酒を一つ下げた。

「腐りますから」

ゲーム内の酒は腐らない。叶慈が指摘すると、女将は肩をすくめた。

「待つことにも、腐る日はあります」

翌日、北の塔へ続く街道が封鎖された。門番は槍を置き、道具屋は値札を外し、広場の吟遊詩人は勇者を讃える歌をやめた。NPCたちは一斉に、自分のための一日を始めていた。運営は不具合と発表し、緊急修正を予告した。

エルダは宿の戸に鍵をかけ、初めて外へ出た。

「どこへ行く」

「東の海を見に。設定資料には書いてあるのに、私は一度も見ていません」

「宿はどうする」

「勇者さまが来るまで待つ役は、もう辞めます」

叶慈は腹を立てた。妻を待つ自分まで否定された気がした。

「待っていれば、いつか戻るかもしれない」

エルダは振り返った。

「では、戻ってきた人に、あなたは何を見せるのです。二十二年前と同じ暖炉ですか」

修正まで残り三十分。叶慈は彼女と東へ走った。途中、いつも背景だった畑で、農夫NPCが仕事を放り出して雲を眺めていた。叶慈は、自分も空を見上げたのが何年ぶりか分からなかった。海は粗い青い板のようで、波音も三種類しかなかった。それでも朝日は、攻略動画で見たどの宝箱より眩しかった。

画面が白くなり、再接続すると、宿屋は元通りだった。エルダは定位置で微笑んだ。

「お帰りなさい、勇者さま」

何も覚えていない声だった。

叶慈は二つ目の蜂蜜酒を注文しなかった。ログアウトすると、押し入れから妻の旅行鞄を出した。翌朝、東行きの列車に乗った。窓の向こうに本物の海が見えたとき、誰に見せるでもなく画面を開き、エルダの宿へ写真を送った。

送信先は存在しないと表示された。

それでも叶慈は、もう待つだけの人ではなかった。