封の切れた遺言書

母の喜和が亡くなるまでの六年間、貝塚清乃は毎朝五時半に起きた。透析の日は車を出し、食べられる物が変わるたび献立を作り直した。夜中に呼吸が乱れれば救急相談へ電話し、朝には何事もなかったように洗濯物を干した。その日々を、兄は一度も見ようとしなかった。兄の陸人は正月に顔を見せるだけで、「長女なんだから当然だろ」と清乃の肩を叩いた。

葬儀から十日後、陸人は親族を集め、封筒から自筆証書遺言を取り出した。

「預金も家も長男の俺に相続させる。母さんの本心だ」

清乃には、古い鏡台と茶碗だけを渡すと書かれていた。叔父たちは「家を守るのは男」とうなずく。清乃は遺言書を一度見て、黙って机へ戻した。

母は晩年、指がこわばって縦線をまっすぐ引けなかった。ところが署名の「貝」の字だけが、十年前の年賀状と同じ勢いで跳ねている。紙には新しい折り目があり、封には一度剥がした跡があった。

「疑うなら鑑定でも何でもしろよ」

陸人は笑った。すでに不動産会社へ自宅の査定を頼み、母の車も売る約束をしたという。

その日の午後、母の遺言執行者に指定されていた弁護士が来た。公証役場から取り寄せた遺言公正証書と、筆跡鑑定の速報を並べる。公正証書には、介護を担った清乃へ全財産を遺贈すること、陸人には生前に住宅購入資金三千万円を渡したことが記されていた。

陸人は偽物の遺言書を取り返そうと手を伸ばした。弁護士は透明な袋へ収め、静かに告げた。

「こちらはお母様の机から消えた便箋と、陸人さんの事務所の複合機で印刷された下書きが一致しました。署名は切り貼りです」

叔父たちの椅子が一斉に陸人から離れた。

「たかが家族の話だろ。遺留分くらいある」

「遺言書を偽造し、利益を得ようとした相続人は、相続欠格となり得ます。清乃さんは刑事告訴も希望されています」

弁護士は公正証書を清乃の前へ置き、陸人の席から相続関係図を引き抜いた。

「本日をもって、あなたは遺産を分ける側ではなく、偽造の責任を問われる側です」