左側の椅子

母は、予約席の左側を指で二度叩いた。

「美依ちゃんはここ。昔から落ち着くでしょ」

二十七歳になっても、席は決まっていた。母の左隣。店員から遠く、注文を聞かれても母の声が先に届く場所だ。

「この子は生ものが苦手なので、よく焼いてください」

「平気だよ」

「無理しなくていいの。美依ちゃん、昔からお腹が弱いんだから」

運ばれてきた鯛のポワレは、母の皿だけ皮がぱりりと立ち、美依の皿は念入りに火を通されて縮んでいた。母は満足そうにナイフを入れ、ひと口大に切り分けようと美依の皿へ手を伸ばす。

美依は皿を静かに引いた。

その動きで、テーブルの上の水が小さく揺れた。母の眉も同じように揺れた。

「どうしたの、美依ちゃん」

「美依です」

「何を急に」

「ちゃんを付けないで。魚も自分で切る」

母はナイフを持ったまま黙った。店内には、氷の触れ合う音と、隣席の笑い声があった。美依は初めて自分の料理を自分の速さで切った。皮の焦げ目は少し苦く、身は思ったよりふっくらしていた。

「来月のお見合いだけど」と母が言う。

「行かない」

「相手のお母さまにも、もう――」

「断る連絡は私がする。電話番号を送って」

母はナプキンをたたみ直した。角を合わせる癖は昔から変わらない。やがて自分のスマートフォンを取り出し、無言で番号を転送した。

美依は通知を確認してから立ち上がり、向かいの空いていた椅子へ移った。

「そっちは風が当たるわよ」

「うん。今日はここがいい」

母と正面から目が合った。近すぎず、隠れられもしない距離だった。

会計のとき、美依は伝票を母の手から受け取った。

「別々でお願いします」

店員が伝票を二つに分ける間、母は何も言わなかった。ただ、美依ちゃん、と呼びかけかけた唇を閉じた。

店を出ると、母は右へ、美依は左へ曲がった。いつもなら同じ駅まで送らされる道だった。夜風が頬に当たり、さっき自分で切った魚の塩気が、まだ舌の端に残っていた。

「美依」

背後から、初めて余計なもののない名前が届いた。

美依は振り返らず、片手だけを上げた。