帰ってきたら、ただいま
「帰ってきたら、ただいまって言えよ」
十八歳で上京する朝、鵜飼理一は八日市透子のキャリーケースをバスの荷物室へ押し込みながら、そう言った。
透子は笑って「帰ってきたらね」と答えた。それから九年、一度も言わなかった。正月に帰省しても、夏に祖母の顔を見に来ても、理一とは駅前ですれ違うだけだった。連絡先は知っていたのに、近況は共通の友人から聞いた。幼なじみとは、会わなくても消えない代わりに、近づくきっかけも失う関係らしい。
祖母の家を売ることになった十一月、透子は最後の片づけのため故郷へ戻った。夕方のバスを降りると、停留所のベンチに理一がいた。九年前より肩幅が広くなり、けれど透子の荷物を無言で持つ癖は変わっていない。
「どうしているの」
「商店街の誰かが、今日帰るって」
「明日には東京へ戻るよ。家もなくなるし、もう来ないかも」
理一は「そうか」とだけ言った。引き止められなかったことに、勝手に傷ついた。
片づけを終えた夜、二人は空になった座敷で段ボールに囲まれて座った。理一が持ってきた缶のおしるこは、昔と同じ甘さだった。
「これ、忘れ物」
差し出されたのは、透子が小学生のころ理一へ貸した青いマフラーだった。端には不器用な白い刺繍で、二人の頭文字が残っている。
「まだ持ってたの?」
「返す日がなかった」
理一はマフラーと一緒に、新幹線の予約画面を見せた。来月の土曜、東京行き。帰りは日曜の夜。宿泊先の欄は空白で、予定名だけが《透子に会う》になっていた。
「故郷がなくても、会いに行ける」
告白ではなかった。彼はただ、透子のスマホへ予定を送り、玄関まで荷物を運んだ。
翌朝、バスが来る。理一がキャリーケースから手を離そうとしたとき、透子はその手をつかんだ。乗車を急かす運転手の視線にも構わず、指を絡める。
「来月、駅まで迎えに行く。理一」
初めて名字も昔のあだ名も使わず呼ぶと、彼の手に力が返った。
「じゃあ今日は?」
透子は空になった祖母の家ではなく、目の前の人を見て言った。
「ただいま」
理一の「おかえり」は、もう故郷へ戻った幼なじみにではなく、次に帰る場所を決めた相手へ向けられていた。