帰宅を数える柱

妻が亡くなってから、古い家へ帰るたび、男はわざと「ただいま」を言わなかった。

返事がないと分かっている言葉を、空の台所へ投げるのが嫌だった。

ある雨の夕方、濡れた靴を脱ぎながら、うっかり口にした。

「ただいま」

玄関脇の太い柱が、こつん、と一度鳴った。

風でも鼠でもない。次の日も、その次の日も、男が一人で帰って「ただいま」と言うと、柱は一度だけ返事をした。

黙って入れば鳴らない。

二度言っても、一度しか鳴らない。

娘は家を売るよう勧めていた。

「一人には広すぎるし、古い家は危ないよ」

男は柱のことを話さなかった。家霊に返事をしてもらって暮らしているなど、娘に知られたくなかった。

冬の夜、娘が突然、大きな鞄を持って帰ってきた。

夫婦喧嘩をしたらしい。

「二、三日だけ」

そう言って玄関を上がり、「ただいま」とは言わなかった。

柱も鳴らなかった。

娘は居間で強がり、茶を飲み、離婚なんて大げさだと笑った。

男は何も聞かなかった。自分が妻を亡くしたとき、慰めより先に事情を尋ねられるのが苦しかったからだ。

三日目の夜、娘は玄関で靴を履いた。

「やっぱり帰る」

「そうか」

「止めないの」

「帰る場所を決めるのは、お前だ」

娘は扉へ手をかけたまま、長く立っていた。

それから鞄を下ろし、家の奥へ向かって小さく言った。

「ただいま」

柱が、こつん、と鳴った。

娘は振り返った。

「今の何」

男はしばらく迷い、

「この家の返事だ」

と答えた。

娘は柱へ掌を当てた。

冷たい木の中へ、昔の身長の傷が何本も残っている。

幼い娘が帰宅するたび、妻は台所から必ず返事をした。その声を、家も長く聞いていたのかもしれない。

娘はその夜、夫へ電話をかけた。

戻るとも別れるとも決めず、まず怖かったことを話した。

男は台所で湯を沸かし、聞こえないふりをした。

春、娘夫婦は別々に暮らすことになった。

娘は週に一度、父の家へ来た。

玄関で必ず「ただいま」と言う。

柱は一度だけ鳴る。

家はまだ売っていない。

いつか手放す日が来るだろう。

それでも男は、返事があるから住み続けるのではない。

返事のない夜にも、自分から言葉を投げられるようになったから、もう少しここで暮らしている。