床の染みは残さない
「床の染みは、残しませんよ」
夜会の終わった王城大広間で、清掃夫ローデンは、いつものように同じことを言った。
見習い侍女のミナは、卓の下に落とした耳飾りを捜しながら、曖昧にうなずく。磨き上げられた大理石には、葡萄酒の輪染みと靴底の泥。ローデンは客の顔を覚えない代わりに、汚れの形だけは一目で見分けた。
「赤はぬるま湯。蝋は先に冷やす。焦ると広がります」
彼の話を聞く者は少ない。灰色の作業着を着た中年男など、宮廷では柱と同じだった。
最後の燭台が消えたとき、壁掛けの黒布が、風もないのに膨らんだ。
布の陰から降りた仮面の男は、音も立てず、王の私室へ通じる扉へ走る。両手には湾曲した短剣。刃に塗られた青い毒が月光を弾いた。
卓の下のミナには、すべてが見えた。声を出せば殺される。そう思った瞬間、ローデンが濡れたモップを男の進路へ滑らせた。
「そこ、まだ乾いていません」
暗殺者が苛立って刃を振るう。
次の瞬間、何が起きたのか、ミナには分からなかった。
ローデンは一歩も踏み込んでいない。モップの柄が、ほんの少し傾いただけだった。それなのに二本の短剣は柄から先だけが床へ落ち、仮面の紐、袖の留め具、膝裏の革帯が同時に切れた。男は関節を失った人形のように崩れ、声さえ出せない。
王宮の壁画で見たことがある。大戦を一太刀で終わらせた剣聖の絶技、《七所ほどき》。斬るべきものだけを選び、肌一枚傷つけない技。
ローデンは倒れた男を絨毯で巻き、廃布運搬車の底へ収めた。毒刃は石鹸箱に封じ、床に落ちた青い雫へ灰を振る。拭き取る手つきは、葡萄酒の染みを消すときと変わらない。
「耳飾りなら、こちらです」
いつの間に拾ったのか、彼は銀の耳飾りをミナへ差し出した。
「いまのは……あなたは、まさか」
ローデンは答えず、新しい水で布を絞った。大広間には再び、布が石を擦る平凡な音だけが残る。
そして青い跡が完全に消えたところで、彼は冒頭と同じ穏やかな声で言った。
「床の染みは、残しませんよ」