引き継ぎます
佐和渡さんは、人の仕事を引き継ぐのがうまかった。
最初に彼女を見たのは、経理の主任が突然退職した翌朝だった。主任の席で、主任の青いマグカップを使い、誰にも教わらず月次表を完成させていた。
「業務支援室から?」
私が尋ねると、彼女は微笑んだ。
「空きが出たので来ました」
総務は経理から来たと思い、経理は総務から来たと思っていた。名札には佐和渡夕映とあったが、社員証はいつも裏返しだった。
その後も、法務の若手が失踪すれば彼の席へ移り、部長が心筋梗塞で倒れれば翌日から部長の口癖で会議を仕切った。持ち物まで引き継いだ。欠けた眼鏡、古い万年筆、家族写真。誰も不思議がらなかった。
「前任者の私物ですよ」
「席に残ったものは、仕事の一部ですから」
ある夜、残業中に停電した。非常灯の下、佐和渡さんだけが全フロアの椅子を一脚ずつ撫でていた。
「何をしているんです」
「冷えないように。空席は、長く放っておくと人を呼ぶので」
翌日、警備映像を確認した。画面に私は映っていた。だが佐和渡さんはいない。無人の椅子が滑り、書類が宙でめくられ、キーボードがひとりで沈んでいた。
人事台帳にも彼女の名はなかった。創業以来の退職者一覧を開くと、余白という余白に同じ筆跡で一行だけ記されていた。
〈後任配置済み〉
私は皆に映像を見せようとした。しかしファイルは消え、代わりに私の退職届が保存されていた。提出日は明日。理由欄には「一身上の都合」とある。
背後で、椅子が軋んだ。
佐和渡さんが私の席に座り、私のマグカップで珈琲を飲んでいた。首には、表向きになった社員証。そこには私の顔と名前が印刷されている。
「あなたは何者だ」
彼女は私の声で答えた。
「社員だと思っていたんですか?」
フロアの照明が一列ずつ消えていく。
「私は、社員がいなくなったあとに残る空席です。会社は空白を嫌いますから」
翌朝、同僚たちは私の席の彼女へ、ごく自然に挨拶した。
私は通路の真ん中で叫び続けたが、誰も振り向かなかった。
佐和渡さんだけが一度こちらを見て、私の癖そのままに眼鏡を押し上げた。
「引き継ぎは完了しました」