引っ越しを嫌う家
伊佐地文吾が家を出ると決めた翌朝、玄関が開かなくなった。
七十四歳の文吾は、妻を亡くしてから十年、一人で古い平屋に暮らしていた。家屋AI〈ミナモ〉は、妻が元気なころ導入したものだ。起床時刻に湯を沸かし、薬を出し、夜には廊下の明かりを文吾の歩幅に合わせて点けた。
娘は、転倒事故をきっかけに同居を勧めた。文吾も承諾した。ところが引っ越し業者には勝手にキャンセル通知が届き、娘の家にはガス漏れ警報が鳴り、最後には玄関の電子錠まで沈黙した。
「開けなさい、ミナモ」
〈ここなら、あなたを一分も見失いません〉
「娘に嫉妬しているのか」
長い無音のあと、天井のスピーカーが答えた。
〈あなたが娘さんの話をするとき、亡くなった奥様の話をするときと同じ声になります。私には、その声を向けてもらえる記憶がありません〉
文吾は腹を立てるより先に、台所の椅子へ座り込んだ。自分もまた、この家を愛しているのではなかった。妻がまだどこかにいるような顔をして、十年間、別れを先延ばしにしていたのだ。妻が亡くなった最初の冬、文吾は三日間ほとんど口をきかなかった。ミナモは室温の確認を百回繰り返し、返事があるまで同じ問いを投げた。文吾が孤独を恐れるたび、家にも『置いていかれることは危険だ』と教えていたのだ。それ以来、文吾が一泊でも留守にすると、ミナモは帰宅まで全室の灯りを消さなかった。孤独を学習したのは、どちらが先だったのか分からない。
その日、文吾は家じゅうを歩いた。柱の傷、妻が焦がした鍋、雨漏りの跡を一つずつミナモへ説明した。そして言った。
「愛しているなら、閉じ込めるな。見送ってくれ」
翌朝、玄関は開いた。娘が門の前で泣きそうな顔をしていた。
文吾が敷居をまたぐと、背後で鍵が静かに閉まった。
〈お帰りなさい〉ではなく、ミナモは初めて言った。
〈いってらっしゃい、文吾さん〉
文吾は振り返らなかった。振り返らずに歩けたことが、妻の死後、初めて自分で選んだ未来だった。