弟を呼べない朝

「その名を消せば、署名した誓約も消えます。ただし、消した者は二度とその名を口にできない」

徴兵台帳を抱えた老書記は、念を押すように言った。

リセナは弟の署名を見下ろした。オルク。七歳のころ、熱を出すたび彼女の袖を握った子。パンを半分にすると、必ず大きい方を押し返してきた子。今朝は鎧の留め具を逆に締め、「姉さん、帰ったら笑ってくれ」と冗談めかした。

城門の外では出征の鐘が鳴っている。台帳の文字は、弟の血を一滴混ぜた墨で書かれていた。消せるのは、同じ血を持つ者だけだという。

「家族なら止めてやれ」と父は怒鳴った。けれど父が望んだのは説得であって、家名に泥を塗る魔法ではない。誓約が消えれば、オルクは逃亡兵ではなくなる。その代わり、リセナは公の場でも、食卓でも、墓前でも、彼を呼べなくなる。

いつか弟が結婚して、人混みの向こうから手を振っても。病床で姉を求めても。老いて耳が遠くなり、名でなければ振り向けなくなっても。彼女だけは、その帰り道を声で照らせない。

老書記が黒い水の小瓶を置いた。

「愛称も、言い換えも駄目です。あなたの中で彼を指す音は、喉を通りません」

リセナは羽根ペンを浸した。墨より黒い雫が、弟の名の上で丸く震えた。

幼いころ、迷子になったオルクを市場で見つけたのは、彼女が声の限り名を呼んだからだった。あのとき弟は泣きながら走ってきて、名を呼ばれると帰る場所が分かる、と言った。

雫を落とす。

弟の名は雨に濡れた灰のようにほどけ、台帳から消えた。遠くで鐘が一度途切れ、兵士たちの点呼がざわめきに変わる。

扉が勢いよく開いた。鎧を脱ぎかけた弟が、息を切らして立っていた。

「姉さん、何をしたんだ」

リセナは笑おうとした。帰ったら笑ってくれと言われたから。

弟は台帳の空白を見て、すべてを悟ったらしい。唇を噛み、それでも最後に甘える子どもの顔をした。

「一度だけでいい。僕の名前、呼んで」

リセナは息を吸った。

喉の奥で、帰る場所だったその名が、音になる直前に消えた。