影の始業ベル

社員の影は、本人より三分早く出勤する。

始業ベルまでに影がタイムレコーダーを踏めば通常勤務。遅れれば本人が定刻にいても遅刻となる。影が別の部署へ寄ることは認められているが、十八時には持ち主の踵へ戻らなければならない。戻らない影を踏んで連れ帰るのは禁止だった。

契約社員の佐久波直哉は、毎朝八時五十六分に玄関を出た。影は足元からするりと抜け、駅前の人波を縫って先に会社へ向かう。直哉は三分遅れて同じ道を歩く。誰かと並んで出勤するほどでもなく、一人と言い切るには黒い背中が先を歩いていた。

十階のタイムレコーダーには、人間用の差し込み口と、床すれすれの影用スリットがある。直哉の影は一度も遅刻しなかった。本人が熱を出した日も、影だけは定刻に出社し、会議室の壁で一日を過ごした。欠勤控除はされたが、皆勤手当は残った。

六月から、影は始業前に給湯室へ寄るようになった。営業二課の女性の影と、自販機の前で並んでいる。本人の名は知らない。直哉と同じく契約社員で、昼休みにはいつも一人で紙コップのコーヒーを飲んでいた。

影同士は声を出さない。けれど、ベルが鳴る直前まで肩を重ね、床に二つの黒い楕円を作った。直哉は女性に話しかけようとして、契約更新の面談が終わってからにしようと延ばした。

更新日は来なかった。金曜の夕方、人事から今月末で終了と告げられた。理由は「配置の都合」。直哉は机を空にし、社員証を返し、十八時のベルを待った。

ところが影は戻らなかった。

給湯室では、女性の影もいなかった。彼女の席はすでに空で、紙コップだけがゴミ箱に積まれていた。総務は「退職日に影が残業することもあります」と言い、翌朝まで待つよう指示した。

直哉は会社を出た。街灯の下を歩いても、足元には何もついてこない。初めて完全に一人になったはずなのに、不思議と寂しくなかった。

翌朝、返却済みの社員証でゲートが一度だけ開いた。タイムレコーダーの影用スリットから、直哉のカードが吐き出された。退勤欄には十八時十三分。その横に、知らない社員番号が並んで打刻されていた。

カードの裏には、黒い指跡で輪を描いた紙コップの底が貼りついていた。