心音は返事をしない

鳰川葉澄が野分広海と出会ったのは、移植医療の啓発講演だった。

葉澄は七年前、心臓移植を受けた。

広海は七年前、妹を交通事故で亡くした。

互いにそこまでは話したが、その二つを結ぶ線には気づかなかった。

二人は一年付き合った。

広海は葉澄の階段を上る速さに合わせ、葉澄は彼が妹の命日だけ甘い物を食べないことを覚えた。

春には一緒に住む部屋まで探した。

運命のいたずらが正体を見せたのは、葉澄がドナー家族との面会を希望した日だった。

面会室の扉を開けると、広海と彼の母が座っていた。

書類上の年齢、手術日、血液型。

間違いはなかった。

葉澄の胸で動いているのは、広海の妹の心臓だった。

最初の数日は、二人とも奇跡だと言った。

「妹が、君へ連れてきてくれたのかも」

広海は泣きながら笑った。

だが次第に、彼は葉澄の胸へ耳を当てる時間が長くなった。

妹が好きだった曲を聴かせ、嫌いだった香草を避けた。

葉澄が笑うと、「あの子もそうやって息を吸った」と言った。

「私を見てる?」

ある夜、葉澄は訊いた。

「見てる」

「聞いてるんじゃなくて?」

「どういう意味だ」

「私の顔より、胸の音を」

広海は否定しようとして、言葉を失った。

彼が葉澄を愛していないわけではなかった。

けれど愛の中へ、妹を失った悲しみが混ざった。

葉澄もまた、別れれば心臓まで奪うような罪悪感を覚えた。

それが何より苦しかった。

「別れよう」

葉澄が言うと、広海は胸へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。

「妹の心臓だから?」

「私の心臓だから」

移植された日から、これは葉澄の身体で生きてきた。

誰かの形見ではなく、彼女の怒りや恋や明日を運ぶために打っている。

最後に一度だけ、広海は彼女の胸へ耳を当てた。

葉澄は逃げなかった。

「何か聞こえる?」

「君が泣くのを我慢してる」

「正解」

二人は少し笑った。

駅で別れるとき、広海は妹へ話しかけるような言葉を一つも言わなかった。

ただ葉澄の名を呼び、「元気で」と告げた。

彼女も彼の名を呼んで返した。

離れてからも、心臓は変わらず動いた。

広海を引き止めることも、妹の声を返すこともなかった。

心音は返事をしない。

ただ、生きる側の時間だけを、前へ前へと刻んでいた。