忘れ物引取票
記憶処置センターの受付で、沼尻栞世は透明な袋を五つ受け取った。
〈処置後に本人が所有を認識できない私物〉
そう印刷された袋には、牛窪行春の歯ブラシ、合鍵、灰色の部屋着、二人で買ったマグカップ、海辺の写真が入っていた。
栞世は事故の記憶に起因する発作を止めるため、過去四年間を消去する。
行春と出会ったのは三年前だった。
「写真くらい残せないの」
行春が訊く。
「知らない男と抱き合ってる写真を見たら、怖いと思う」
「説明する」
「説明されて愛するのは、授業みたいで嫌だな」
栞世は笑った。
事故の日、彼女は同乗していた妹を亡くした。その後の記憶は、悲しみと行春の存在が絡み合っていた。医師は事故だけを切り離せないと言った。
処置を受けなければ、発作はいずれ命に関わる。
受ければ、彼女は行春を忘れる。
「また会いに行く」
「だめ」
「どうして」
「私はきっと、あなたを好きになるかもしれない。でもそれが、昔の私に言われたからなのか、今の私の気持ちなのか、分からなくなる」
「分からなくても、一緒にいれば」
「あなたは三年分を知っていて、私は初日から始める。その差を、私への優しさで隠すでしょう」
行春は袋の持ち手を握った。
返事の代わりに、灰色の部屋着を丁寧に畳み直した。
処置前、栞世は最後の確認書へ署名した。
〈消去対象期間に含まれる対人関係の復元を希望しません〉
「そこまで書く必要ある?」
「未来の私が寂しくなって、あなたを探さないように」
「未来の君は、今の君じゃないのか」
「同じ人だよ。だから、今の私が守るの」
二人はセンターの食堂で最後の昼食を食べた。
栞世はカレーを半分残した。
行春は彼女が福神漬けを嫌うことを知っていたが、もう取り除かなかった。明日の彼女が何を嫌うかは、明日の彼女が決めるべきだった。
処置は三時間で終わった。
夕方、行春が受付で荷物を受け取っていると、栞世が看護師に付き添われて出てきた。
彼を見ても、表情は動かなかった。
「この人が、忘れ物の持ち主です」
看護師が説明する。
栞世は頭を下げた。
「長いあいだ、お預かりしていたみたいですね」
「はい」
「ご迷惑をおかけしました」
「いいえ。大事にしてもらいました」
行春は笑った。
栞世も、知らない人へ返す礼儀正しい笑顔を見せた。
扉の外で、彼は一度も振り返らなかった。
振り返れば、彼女の新しい人生へ、古い自分を置き忘れてしまう気がした。
袋の中で、二つのマグカップが歩くたび小さく触れ合った。
片方だけを返す方法を、最後まで二人は見つけられなかった。