恋と看護の境目
桑名理瀬が退院した日、桐生巽は冷蔵庫の右半分を空にした。
ビール、辛い漬物、深夜用のプリン。二人で暮らし始めた頃は、そこが巽の陣地だった。けれど理瀬が再発を繰り返すようになってから、右半分には日付を書いた薬、作り置きの薄味スープ、緊急連絡先を貼った保存容器が並ぶようになった。
「本当に出ていくの」
巽が訊いた。
「出ていくのは私。ここ、あなた名義だから」
「そういう意味じゃない」
四年前に同棲し、二年前に理瀬の病気が分かった。治る病気ではないが、付き合いながら働くことはできる。ただ、いつ症状が悪くなるか分からない。
巽は悪化する前兆を、理瀬本人より早く見つけるようになった。食欲、顔色、歩幅。夜中に彼女が寝返りを打つだけで目を覚ました。
「俺は看病が嫌だなんて言ってない」
「知ってる。嫌だって言わないから、別れるの」
「意味が分からない」
「最近、私の顔を見るとき、笑う前に体調を確認するでしょう」
巽は否定できなかった。
理瀬も、何かを頼むたび恋人ではなく患者になる気がした。二人で映画を見ても、彼は上映時間より服薬時刻を気にした。優しさが積み重なるほど、恋と看護の境目が見えなくなった。
「病気が落ち着いたら、また考えればいい」
「落ち着いている私だけが私じゃないよ。悪い日も含めて、これからずっと私なの」
「それでも一緒にいたい」
「私は今、一人で病気になる練習がしたい。あなたにも、私が倒れない夜を眠ってほしい」
巽は空にした棚を見つめた。
「好きじゃなくなった?」
「好き。だから、あなたを病気の付属品にしたくない」
「俺の気持ちを勝手に決めるな」
「うん。だからこれは、あなたのためだけじゃない。私が自分の生活を取り戻すため」
二人は長く黙った。
最後に巽は、冷蔵庫へ貼っていた服薬表を剥がした。
「これは持っていけ」
「自分で新しいのを書く」
「字、汚いのに」
「読めればいい」
引っ越しの車が来ると、理瀬は合鍵をテーブルへ置いた。
巽は玄関まで送ったが、荷物には触れなかった。手伝えば、また看護の続きを始めてしまう気がした。
新しい部屋で、理瀬は薬を冷蔵庫の右半分へ並べた。
左には一人分の食材しかない。広すぎる棚を見て泣いたあと、今日の薬を自分で取り出した。
巽がいなくなっても、病気は残った。
だからこそ、別れは治療ではなかった。
好きな人と病気を、同じ名前で呼ばないための、二人の最後の選択だった。