息を止めるミックス
尾上硝子が貯水池で死んでから、三か月後の午前零時。ミックス担当だった唐木透の画面に、彼女の公式アカウントが点灯した。
新曲『BREATH』。予約投稿。
イントロは、水滴と四つ打ちだけだった。右のイヤホンで誰かが息を吸い、左で硝子が囁く。
「息を止めて」
透は反射的にスペースキーを押した。録音中、彼女が高音を外すたびに自分が言った指示だ。呼吸を切って、腹で支えろ。硝子はいつも、首を横に振って笑った。
硝子は、自分の声だけが売れていき、名前も権利も透の会社に残る契約を嫌っていた。最後の打ち合わせでは、原盤を持って出ると言った。透は「お前の声は俺が作った」と返した。翌朝、彼女は冷たい水面から引き上げられた。
再生画面のコメント欄が流れ始める。
〈遺作?〉
〈声、近すぎて怖い〉
〈これ本当に硝子?〉
Aメロでシンセが濁り、濡れた布を絞るようなノイズが混じった。透は知っていた。あの夜、彼女が胸元につけていた小型マイクの音だ。契約を解除すると言い出した硝子を車に乗せ、湖畔まで連れていった。マイクは途中で外したはずだった。
「息を止めて」
二度目の囁きの後、低音が一斉に消えた。
水の中の泡。爪が金属を掻く音。遠くで自分の靴が砂利を踏む音。そして、はっきりした男の声。
――まだ息してる?
透は卓上スピーカーの電源を抜いた。無音になったはずの部屋で、自分の鼓動だけがキックと同じ速さを刻む。だがスマートフォンも、隣室のテレビも、同じサビを鳴らしている。硝子はマスターを複数の配信先へ予約していた。削除画面を開くたび、視聴者数が跳ね上がる。
サビの最後、彼女の声は歌わず、ただ長く息を吐いた。生きていた時間を測るような、細い呼気だった。
玄関の呼び鈴が鳴る。再生画面の波形は、最後の一音を残して止まった。
「息を止めて」
今度はイヤホンからではなかった。
透自身が、扉の向こうの「警察です」という声に、そう命じられたように呼吸まで止まっていた。