悲しみの返品期限
篝谷織江が夫を亡くした翌朝、区役所から悲嘆抑制剤が届いた。葬儀、相続、転居を滞りなく進めるため、遺族には三十日分が無償で支給される。
一錠飲むと、胸の奥にあった鉛の塊が消えた。夫の靴を処分しても、冷凍庫から好物の餃子が出てきても、織江は手順どおりに片づけられた。友人は「無理しないで」と言ったが、無理をしている感覚さえなかった。
夫はよく、悲しむ織江を笑わせた。けれど薬を飲み始めてから、その冗談を思い出しても、面白かったという知識だけが残った。声の調子や、笑いをこらえる横顔が、薄い説明文になっていく。
二十八日目、医療AIから通知が来た。
〈継続を希望しますか。悲嘆の再発率は九六%です〉
継続すれば、夫のいない生活に早く適応できる。織江は承認しかけ、机の引き出しで小さな紙袋を見つけた。夫が入院前に用意した誕生日プレゼントだった。中には安物の耳栓と、メモがあった。
〈俺がいなくなったら、静かすぎて眠れないだろ。これで我慢して〉
織江は一度も笑わなかった。笑えないことが、初めて怖くなった。
その夜、薬を飲まなかった。午前二時、冷蔵庫の作動音だけで涙があふれた。息ができず、床に座り込み、夫の名前を何度も呼んだ。こんな苦しさを自分から選んだことを後悔した。
それでも、泣きながらメモを読み返したとき、夫の声が戻った。少し得意げで、肝心なところで噛む声だった。織江は涙と一緒に笑った。
翌朝、医療AIへ継続拒否を送った。返信には、返品期限を過ぎた悲嘆は自己責任と記されていた。
織江はそれでよかった。夫を失った痛みは、夫と暮らした時間の裏側だった。片方だけを捨てれば、残った思い出まで平らになる。
一年後、彼女は遺族相談室で働き始めた。薬を飲む人にも、飲まない人にも何も勧めない。ただ、選択画面の横でこう伝えた。
「悲しみは治すものとは限りません。でも、抱えきれない日は預けてもいいんです」
机の引き出しには、今も耳栓が入っている。眠れない夜、織江はそれを使わず、静けさの向こうに夫の笑い声を探した。