打設前の三ミリ

午前四時二十分、七階の床には、最初の生コン車が後退する警告音が響いていた。

「六時までに打ち始めないと、道路使用の時間を越えます」

職長の声に、施工管理の八重樫千景は返事をせず、階段室の四隅を歩いた。今夜の依頼は、夜明けまでに床を打ち終えること。誰もが空を気にしていた。雨雲は近い。けれど千景が見ていたのは、墨から三ミリ外れたアンカーボルトだった。

「測量の誤差だろ。鉄骨側で吸収できる」

そう言われても、千景は濡れた合板の型板を指で押した。ボルトを固定していた穴が、わずかに楕円へ膨らんでいる。夕方の雨を吸った型板が伸び、四本を同じ方向へ引っ張っていたのだ。一本なら調整できる。四本ともなら、後で載る避難階段がねじれる。

「ここだけ最後に回します」

千景はポンプ車の配管順を変えた。南側から始める予定を北側へ移し、その間に大工へ乾いた合板で型板を作り直してもらう。職長は腕時計を叩いた。

「順番を変えたら、終わらないぞ」

「このまま打設したら、終わったことにしてから壊します」

返事の代わりに、大工がインパクトを回し始めた。

千景はボルトを一本ずつ墨へ戻し、対角を測った。三ミリ、二ミリ、一ミリ。焦ってナットを締めれば、また型板が寄る。二人に同時に押さえてもらい、対角の順で固定した。最後に自分の靴で型板を蹴った。動かない。

「北側、流せます!」

コンクリートがホースから吐き出され、床の鉄筋の間を灰色に埋めていく。南の階段室へ届いたとき、空が白み始めていた。

職長は何も褒めず、ボルトの中心をもう一度測ってから、千景へ温かい缶コーヒーを置いた。

一本目の車が空になり、二本目が構内へ入ってくる。その無線に重なるように、地上の監督から連絡が入った。

「八重樫さん、次便、一台遅れます」

千景は作り直した型板へ時刻を書き、写真を三方向から撮った。完成後には床へ隠れる部分ほど、直した記録が必要になる。数年後に階段を交換する誰かが、図面と現物の違いで迷わないためだった。

千景はコーヒーを開けず、打設順の図に新しい矢印を引いた。床はまだ半分も、朝になっていなかった。