折り目のない稲荷

黒瀬佳苗が祖母の店へ戻ったのは、暖簾を下ろしたあとの午後九時だった。

調理台には、稲荷ずしが六個並んでいた。母は「味を見て」とだけ言い、向かいの丸椅子へ座った。酢飯と炒り胡麻の香りが、閉店後の暗い客席まで細く流れている。

祖母が死んで半年。母は一度も、店を継いでほしいとは言わなかった。ただ、求人票を見ている佳苗の前へ帳簿を置き、仕入れ先へ行く日は車の鍵を渡した。頼まないことで頼む人だった。

祖母が倒れてからの三か月、佳苗は週末ごとに揚げを煮た。母は一度だけ「手が覚えたね」と言い、それから翌月の当番表へ佳苗の名を書いた。褒め言葉の続きを断る方法が、佳苗には分からなかった。

佳苗の鞄には、隣県の資料修復工房から届いた採用通知が入っている。返事の期限は明日だ。紙を直す仕事に就きたいと、祖母には生前話せたのに、母には言えなかった。採用先では、虫に食われた古文書を一枚ずつ補い、破れた形を消さずに残す。祖母の稲荷に似た仕事だと思ったことも、母には話していない。言えば、この店を一人で閉じさせることになる。

佳苗は端の一個を取った。油揚げの口が少し開き、形もほかより低い。祖母は売り物にならない稲荷を、いつも自分の皿へよけていた。

薄く冷めた油揚げはしっとりして、噛むと酢飯の粒がほどけた。祖母のレシピでは、揚げを折るとき爪を立てない。破れたら包み直さず、自分の分にする。

一個目を食べ終えても、母は何も聞かなかった。

佳苗は二個目、三個目と、形の崩れたものから選んだ。子どものころは、きれいな真ん中の一個を最初に取っていた。店に残れば、あの場所を譲られ続けるのだろう。

五個目を飲み込み、佳苗は箸を置いた。皿には、いちばん整った稲荷が一個だけ残った。

「明日の分?」

母の声は短かった。

佳苗は採用通知を鞄から出し、残した一個の隣へ置いた。

「ううん。お母さんの分」

母は通知を読まず、先に稲荷へ透明な蓋をかぶせた。それから、祖母の染みだらけのレシピ帳を佳苗の封筒の下へ差し込んだ。

佳苗は六個目を食べなかった。継がない味を、持っていくために。