拍手のない最終稽古
町の小劇場〈薄明座〉で、蒲生佳音と矢萩幹生は最後の場面を繰り返していた。
佳音の役は旅立つ踊り子。幹生は彼女を見送る駅員だった。
「待っていて」
「待たない」
「どうして」
「君が帰る場所になると、君は遠くまで行けないから」
台本にないところで、佳音の声が止まった。
彼女は全国劇団の研究生に選ばれた。三年間、各地を巡る。十五歳から願い続けた夢だった。
幹生は薄明座に残り、閉鎖寸前の劇場を改修する。古い照明を直し、子どもの演劇教室を始める。それが彼の夢だった。
「本当に、別れる必要ある?」
幹生が舞台袖から訊いた。
「遠距離なら、できるかもしれない」
「できるよ。俺は公演を観に行く。佳音は休演日に帰ってくる」
「そうやって二人とも、夢の合間を相手のために空けるの?」
「好きなら普通だろ」
「その普通で、どちらかの夢が待合室になっていくのが嫌なの」
半年前、幹生には大劇場の照明部から誘いが来ていた。佳音の巡業先と重なる仕事だった。けれど彼は断った。
薄明座を残したいから、と言った。
本当は、佳音を追ったと思われたくなかったのかもしれない。あるいは、追わなかったことを彼女のせいにしたくなかったのかもしれない。
佳音も、劇団の面接で「帰る町があります」と答えた。その一言のせいで、どこまで行っても仮住まいのような気がした。
「私たち、互いの夢を応援するのが上手すぎたね」
「悪いことか」
「自分の夢を小さくするところまで、応援って呼びそうになった」
客席には誰もいなかった。
幹生は照明卓へ戻り、舞台へ一筋だけ白い光を落とした。
「最初から、もう一度」
彼が言う。
佳音は旅立つ踊り子になった。
「待っていて」
幹生は駅員として答えた。
「待たない」
「どうして」
「君が帰る場所になると、君は遠くまで行けないから」
今度は最後まで言えた。
幕が下りる直前、佳音は役を外れて囁いた。
「好きだった」
暗闇の向こうから、幹生の声が返った。
「今も好きだ」
それでも幕は下りた。
翌朝、佳音は巡業バスに乗り、幹生は劇場の足場を組んだ。
二人の夢は同じ方角に伸びなかった。
最後の稽古に拍手はなかった。
けれど互いの人生から降りるために演じたあの別れだけが、二人にとって最も嘘のない本番だった。