拡大しない朝
午前八時五十二分、小木曽澪はオンライン会議の待機画面で、自分の頬だけを見ていた。
昨夜できた赤い吹き出物が、デスクライトの下では小さな非常灯のように見える。澪はいつものように画面を撮り、指で拡大した。毛穴、乾いた皮、コンシーラーの境目。確認するほど直したい場所が増えていく。
在宅勤務を始めてから、鏡は一日に一度しか見なくなったのに、顔を確認する回数は増えた。会議の録画から自分の映る秒だけを探し、話の内容ではなく頬の影を覚えている。机の引き出しには、資料用の付箋より多く化粧直しの道具が入っていた。
九時からは、三か月かけたアプリ改修の説明だった。資料は昨夜までに整えたのに、澪の頭には「この顔で画面に出る」という一文しか残っていない。洗面所へ行けば、まだ塗り重ねられる。けれど、朝から何度も触った頬は熱を持ち、さっき爪を立てたところが薄く滲んでいた。
チャットに、上司から「七枚目、数字だけ更新済み」と届く。励ましでも心配でもない、仕事の連絡だった。
澪は拡大した画像を閉じた。会議室に入り、カメラをオンにする。それから設定の「セルフビューを非表示」を押した。
画面から自分だけが消え、取引先の四角い窓が並んだ。誰かが咳払いをし、誰かの背後で猫が横切る。澪は一枚目を共有した。声が少し上ずったが、三枚目では戻った。七枚目の数字を読み、質問には資料の該当箇所を示した。
途中、相手が画面共有を切り替えた瞬間、澪の指はセルフビューを戻すメニューへ動いた。自分がどう映っているか分からない不安が、喉まで上がる。けれど、相手の質問文をメモするため、その指をキーボードへ置いた。
会議は予定より二分早く終わった。大きな拍手も、容姿への言及もなかった。ただ次回までの修正項目が三つ残った。
退出後、黒くなった画面に一瞬だけ自分が映った。澪の指は、反射的に頬へ伸びかけた。
けれど、その手で冷めたマグカップを持った。カメラアプリは開かないまま、次の作業ファイルを開く。
朝の顔は、もう今日の議題ではなかった。