指輪は引越し便より遅い
鳥飼和葉が最後の段ボールへガムテープを貼ったとき、榎戸壮馬が帰ってきた。
息を切らし、濡れた前髪のまま、彼は小さな紺色の箱と婚姻届を食卓へ置いた。
「結婚しよう」
和葉はテープを切る鋏を持ったまま、しばらく箱を見た。
六年間、彼女は何度も将来の話をした。
壮馬は、今の企画が終わったら、昇進したら、母の治療が落ち着いたら、と答えた。どれも嘘ではなかった。彼は本当に忙しく、家族を支え、和葉を愛していた。
だから和葉も待った。
待っていると言うたび、結婚を迫る人間になった気がして、三年前から何も訊かなくなった。
「今日、会社に異動願いを出した。残業の少ない部署へ移る。母さんにも話した」
壮馬は続けた。
「遅くなってごめん。でも、これからは――」
「私、今日出ていくの」
廊下には引越し業者の靴音が近づいていた。
壮馬は、初めて段ボールの宛先を見た。
市内の小さな部屋。和葉一人の名義。
「どうして何も言わなかった」
「言えば、今日みたいに急いでくれたでしょう」
「それの何が悪い」
「私が消えそうになってから選ばれるのが、もうつらいの」
壮馬は婚姻届を握った。
「まだ好きじゃないのか」
「好きだよ」
即答すると、彼の顔に希望が浮かんだ。
和葉は泣きながら首を振った。
「でも、指輪を待っていた私と、今の私は同じじゃない。ずっと玄関を見ていた人は、ある日、見るのをやめるの。やめたあとで帰ってこられても、前と同じ場所には立てない」
「やり直せる」
「たぶん。でも私は、壮馬が仕事を変えたことも、お母さんと話したことも、全部自分の退去届の代償みたいに数える。喧嘩するたび、あのとき私のために、と言われていなくても思う」
業者が呼び鈴を鳴らした。
壮馬は最後の箱を持ち上げた。
いつもなら重い物を持たせない人だった。今日は和葉も反対せず、二人で階段を下りた。
トラックの前で、彼が訊いた。
「昨日だったら、はいって言った?」
和葉は考えた。
優しい嘘は、もう要らなかった。
「三か月前なら」
壮馬は笑おうとして、うまくできなかった。
和葉も同じ顔で笑った。
箱を積み終えると、彼は指輪を渡さなかった。
彼女も受け取らなかった。
トラックが動き出す。
窓越しに見た壮馬は、婚姻届を折らずに持っていた。
二人を別れさせたのは、愛がなかったことではない。
一人が未来へ進む決心をした日と、もう一人が待つのをやめた日が、ほんの少しだけ遅れて重なったことだった。